その信仰を見倣いなさい ヘブライ人への手紙 13:6〜8 

2012.6.24の説教断片

 本日は、ホーリネス弾圧記念礼拝です。あの戦争時に弾圧を受けた教職者、先輩たちは、国を恐れず、 特高警察を恐れず、人を恐れず、自らのホーリネスの信仰を貫き通しました。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。 人はわたしに何ができるだろう」(ヘブライ13:6)。殉教された先生たちは、「天の故郷を熱望し」(同11:16)、 「信仰を抱いて死んだ」(同11:13)のです。私たちは日々の生活の中で、神さまの目よりも人の目を大切にしていることでは ないでしょうか。究極的な助け手として、神を慕い求めているでしょうか。

 私たち日本人の精神の根底には、「平家物語」「方丈記」などにある無常観があります。むずかしい言葉ですが、 人の世は変わりやすいもの、すべてがはかなく、むなしいものだというものです。本当にそうでしょうか。 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(同11:8)。2000年前に神のわざを行われた イエス様は、今日も、そして永遠に変わることがない、生きておられる、という宣言なのです。長いキリスト教の歴史の中で、 厳しい戦いをしてきたキリスト者たちが、どんなにこの言葉に慰められ、励まされ、支えられてきたことでしょう。 人も、人の営みも、絶えず移ろい行きますが、イエス・キリストはきのうも、今日も、永遠に変わることがないのです。(山本修一師)

キリストのうちに、新しく造られた コリントの信徒の手紙(2)5:16〜17 

2012.6.17の説教断片

 「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない」という言葉があります。 私たちは「二度生まれる」必要があります。「この世の誕生」と「霊的な誕生」です。クリスチャンは、主イエス・キリストの 十字架と復活によって、霊的に誕生し、新しく生まれ変わった(新生)のです。それは洗礼を受けたときでした。 しかし洗礼は受けたのですが、「どこが変わったのでしょう」「あんまり変わっていませんね」という方もおられます。 新生は、外側の問題ではありません。信仰の問題です。

 人間には決して克服できない問題が二つあります。罪と死の問題です。クリスチャンは、主イエスの十字架の血潮により、 すべての罪が許されました。主イエスを信じることにより、死ではなく、永遠の命を獲得しました。

 私たちは変えられたことを、信仰を持って受け止め、なおいっしょう主の似姿に変えられていくことを求めていきましょう。

 田原米子さんという伝道者の話です。この方は高校生のとき、母の急死と人生のむなしさに耐えられず、鉄道自殺を 図りました。病院で目覚めたとき、もっと残酷な人生が待っていました。両足と左手が切断され、右手も三本の指しか残っていませんでした…。 やがて「…キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との 聖書の言葉に出会い、まったく新しく変えられました。ものの見方や価値観も、人生観や人生の方向も心の根底から変えられました。 その後、全国の学校、施設、病院をくまなく訪問し、キリストをあかししたのです。

 私たちも、生まれ変わらなければ、神の国に入ることはできないのです。しかし「キリストに結ばれる人」は、 すでに新しく造られた者なのです。(山本修一師)

あなたの足のくつを脱ぎなさい ヨシュア記5:13〜15 

2012.6.10の説教断片

 ヨシュアの率いるイスラエルの民は、エジプトを脱出し、40年間も砂漠と荒野を放浪し、やっとヨルダン川を渡って カナンの地に入りました。いよいよ本格的なカナン制服の戦いが始まります。ヨシュア記6章からは要塞都市エリコの戦いです。

 その直前に、主はイスラエルの民に割礼を命じ、過越の祭りを祝わせました(5:1-12)。割礼も過越の祭りも、 近代の戦い方から見れば、敵にすきを見せ、奇襲を誘うもので、とても危険なことでした。しかし種は、民をもう一度信仰の 原点(主の御前に立つ)に立たせたのです。

 ヨシュアも問われました。強い敵を前にして、不安と恐怖を覚え、必死に祈っているとき、「抜き身の剣を手にした男」に 出会いました。この「男」こそ「主」であり、「イエス・キリスト」だったのです。ヨシュアは「その男」の前に、ひれ伏して 徹底的に謙遜の姿勢を見せました。「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか(14)」と、みこころを問いました。 それに対する主の答えは、「あなたの足から履物を脱げ」とさらなる謙遜を求められました。

 現代は、世俗化が進み、ますます神を認めない、神を崇めない人々が増えています。目に見えない世界では、 主が抜き身の剣を持って、先頭に立って戦ってくださっていることを信じる人は、少数のキリスト者かもしれません。 私たちが主の御前で「履物(靴)」を脱ぐとき、すなわち自分の主観、考え、自分を中心としたすべての生活を明け渡す時、 主は私たちの中に入られ、住まわれるのです。私たちが「足の履物(靴)」を脱がないので、それ以上の「聖なる地」に 進めない、ということはないでしょうか。(山本修一師)

聖霊に満たされましたか(聖霊4) 使徒言行録19:1〜10 

2012.6.3の説教断片

 これからお話しすることは、「聖霊を受けること(内住)」と、「聖霊の満たし」とは 違うということです。

 私たちは、「罪を悔い改め、洗礼を受けたときに、聖霊を受けました。」その時から聖霊は私たちの心に宿り(内住)、 良き影響を及ぼそうとされています。天地の創造主を、「天のお父様」と呼べるようになったのは、 聖霊の働きによるものです。(ガラ4:6)

 しかし依然として聖霊に無関心で、聖霊の働きを意識しないのはなぜでしょうか。心の内に聖霊をお迎えしていないからです。 私たちは心のすべての部屋を聖霊に明け渡すことが求められるのです。この部屋も、あの部屋もすべての部屋を案内できるでしょうか。 罪と恥と秘密が詰まって、整理されていない例外の部屋が残っていないでしょうか。 …これでは聖霊の支配にすっかりお任せしているとは言えないのです。

 「聖霊の満たし」とは、聖霊が私たちの心を支配し、私たちの魂に命と力を及ぼし、満ちあふれさせてくださることです。 では聖霊に満たされるにはどうしたらいいのでしょうか。第一に自らの中にある罪を徹底的に自覚し、 罪の告白をする(現代欠けているところと言われます)。第二に「聖霊の満たし」を熱心に祈り求める。 信仰を持って求める者には、必ず「満たし」が与えられるのです。第三に献身(明け渡す)です。わが持てるものを、そして自我を、 どれだけ神にささげたかが問われるのです。

 聖霊に満たされると、神への愛と人への愛、そして福音宣教への尽きない情熱に満たされます。また「愛、喜び、平和、寛容、 親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ6:22)の実をいただくことができるのです。(山本修一師)

過去のメッセージ

2012年5月


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