主の前に立つ(主の前に出る4) ヨハネによる福音書 17:15〜26 

2012.7.29の説教断片

 主イエスは、最後の晩餐での告別説教を終わって、近くの園に出かけ、天に向かって祈られました。1章にも及ぶ長い祈りです。 ヨハネ書17章の祈りは、「大祭司の祈り」と言われています。旧約時代の大祭司は、イスラエルの民の赦しのために、 神にとりなす役目をもっていました。イエスさまは「大祭司」のように、この世に残される弟子たちのため、 とりなしの祈りをささげられたのです。この祈りは、翌朝に十字架にかかられる直前のことです。 ゲッセマネの祈りで、すでに「私の魂は死ぬほど苦しい」祈りをささげられました。 そのうえで、この世に生きなければならない弟子たちのために(そして私たちのために)、熱き、苦闘の祈りをささげられました。

 ではどんな祈りをされたのでしょう。

 第一に、この世にとどまり、福音を宣べ伝えるべき弟子たちが、「悪い者(サタン)から守られる」(15)ように、 「悪より救い出される」ようにとの祈りでした。第二の祈りは、この世に生きる弟子たちが、「真理の御言葉」によって、 聖なる者となるように(17)、潔くなるようにというものでした。第三は、父なる神と御子イエスが完全に一体であるように、 弟子たちの教会も主の愛において「一つとなる」ように(21)との祈りでした。 「悪いもの」の狙いは、いつも私たちの心に疑いと不信、怖れを植え付け、分裂させ、争うようにすることです。 しかしキリストは一つ、聖霊も一つ、信仰も一つ、望みも一つ、そして愛も一つです。だから私たちも「一つ」とならねばなりません。

 このイエスさまの深い祈りをみていくと、いかに私たちは、いつも狭い、自己中心的な祈りをしているか反省させられます。(山本修一師)

主の前に立つ(主の前に出る3) 列王記 上 19:1〜18 

2012.7.22の説教断片

 7月から「主の前に出る」とは何かを、連続でお話ししてきました。本日は、旧約聖書の中で偉大な預言者の一人である 「エリヤ」を通して、「主の前に立つ」ことの意味を学んでいきます。

 旧約聖書の「列王記」は、目まぐるしく王様の名前があらわれ、しかもカタカナばかりで、苦手だという方が多いかもしれません。

 この列王記17章から「エリヤ」という有名な預言者が登場します。エリヤの時代は、イスラエルの国が分裂してから もっとも偶像(バアル)礼拝の強い時期でした。そして3年半も雨の降らない干ばつの時代でした。 このときエリヤは一人で、偶像神と戦い、主の勝利を得ました。ところがあろうことか、王妃イゼベルの報復宣言に震え上がり、 命からがら逃亡します。なぜ得意の絶頂から死を願うほどの絶望に突き落とされたのでしょうか。 エリヤの中に自分の熱心を誇る傲慢な思いがなかったでしょうか。しかし主はエリヤをねんごろに支え、守り、あのモーセが 主と出会った神の山ホレブに導き、そこに立たせ、新しい使命を与えました。エリヤにとって勝利から絶望へ、絶望から希望へと 導かれたのです。

 ここで「主の前に立つ」とは、第一に「洞穴」から出て「山の中で主の前に立つ」こと、すなわち自分の殻、 世界に閉じこもっていないで神の世界、神中心に生きることを意味します。 「主の前に立つ」ことの第二の意味は、静かなささやくような神の声を聞くということです。やっと聞こえるくらいのささやく声ですから、 私たち一人一人が神の前でどれほど耳を傾けているか、集中しているかが問われるのです。(山本修一師)

雲の中の虹 創世記 9:1〜17 

2012.7.15(信徒礼拝)の説教断片

 ノアの洪水物語から、いくつか学びます。

 第一に、ノアの洪水は、神の怒りであり、神の審判でありました(創6章)。創造主である神は、人間の罪、 不法、愚かな状態を見て(6:5、6:11-13)洪水によって、一部を除くすべての被造物を一掃されました。 それは峻厳な神の裁きでした。

 第二に、ノアの洪水物語の中から、創造主ご自身が、私たち人間と同じような思い(感情)を持っておられることを学びます。 聖書をよく見ると(6:5-6)、神ご自身が、その創造の失敗を後悔され、まるで人間と同じように、悩み苦しんでおられることを みることができるのです。

 第三に、ノアの洪水後に、神は自らしたことを激しく後悔し、まるでノアに詫びるように 「二度と洪水で人と生き物を滅ぼすようなことはしない」(9:11)と約束されました。不思議なことです。 詫びるべきは…、反省すべきは…、罪を犯してきた私たち人間の側であります。しかし人間の罪は洪水で洗われたわけでもなく、 人間が罪を悔い改めた、というわけでもありません。ただ神は、人間が滅びるのを見るのがつらい、悲しい、忍びない… だから、今後も人が罪を犯し続けることがあったとしても、「二度と…滅ぼすことはしない」。 その契約のしるしとして虹を立てられたのです。

 やがて新約にいたり、神は、罪のゆえに人間を滅ぼすのではなく、ご自身の独り子を世に送り、十字架の死によって、 それを背負い、赦してくださったのです。主イエス・キリストの十字架によって、「虹の契約」は完成され、 具体的に成就したのです。(山本修一師)

わたしは何者でしょう(主の前に出る2) 出エジプト記 3:1〜12 

2012.7.8の説教断片

 神さまから使命と役割を示された時、モーセは「わたしは何者でしょう」(3:11)と逆に問いました。 私たち人間には、いろいろな事情(年齢、能力など)、言いわけがあります。どんな事情があろうとも、 神さまから見ればどうでもいいことばかりです。私たちは神さまの声に、素直に従えるかどうかが問われるのです。 しょせん、人間の持つものは一時的であり、やがて消え去る、燃え尽きてしまうものです。

 神さまは、モーセに「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(3:12) とお答えになりました。どうもモーセの質問に対する、直接の回答ではありませんでした。しかしこの言葉こそ、 モーセの生き方を根底から支え、立ち上がらせ、新しい使命に生かすものとしたのです。 モーセは、このとき「主が共にいる」インマヌエルの信仰を与えられたのです。

 ボンヘッファーというドイツの神学者がいました。彼は第二次大戦中に、ヒットラーの暗殺計画に加わったかどで、 ナチスに逮捕され、2年間も収容所で収容され、あげくの果てに処刑されてしまいました。 連合軍がドイツを占領するわずか数週間前のことでした。

 彼は獄中で、処刑される不安と死の問題で苦しみ、その心の葛藤を詩に託します。その一つが「私は何者か」 というものです。この詩を読むとボンヘッファーの「私は何者なのか」という問いに対して、神さまから直接的な 答えはなかったようです。…しかし不思議な導きで、その問いは解決され、逆に「ああ神よ、あなたは私を知り給う。 私はあなたのものである。」との気づきの中に平安を得たのでした。(山本修一師)

主よ、お話しください(主の前に出る1) サムエル記 上 3:1〜9 

2012.7.1の説教断片

 7月は、何回かにわたって、キリスト教信仰の基本的な姿勢について、「主の前に出る」というテーマでお話ししていきます。

 聖書によれば、「棚からぼたもち」「果報(幸運のこと)は寝て待て」の姿勢は正しいものではありません。私たちの信仰は いつも「一歩だけ主に近づく」「少し努力する」「日々、成長する」…ことが求められているのです。 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブ)」 主は、一歩だけ近づこうとする私たちを (大歓迎の手をさしのべて)待ち構えてくださるのです。この小さな日々の前向きの信仰が、昨年よりは今年、 先週よりは今週、今日より明日への成長につながっているのです。

 この世では、天皇陛下やアメリカ大統領に会って話しをすることは、まず不可能なことです。 しかし私たちは、万物の創造主である神さま、御子イエスさまに会うことも、交流することもゆるされているのです。 さらに願いを聞いてくださり、永遠の命もいただくことができるのです。こんな素晴らしい恵みはほかにあるでしょうか。

 私たちはどのように、神さまと交流できるのでしょうか。

 本日のテキストは、少年サムエルが初めて神の声を聴いた場面でした。無垢で純粋な少年サムエルは、 主の呼びかけに対して、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております。』と答えました。 ここから主の御前では、徹底した謙遜な姿勢になることを学びます。これこそ信仰の原点です。

 主の前に砕かれた魂をささげていきましょう。(山本修一師)

過去のメッセージ

2012年6月2012年5月


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