しつよう(執拗)な祈り ルカによる福音書 11:5〜13 

2012.8.26の説教断片

 イエスさまは、ルカ書11章の冒頭で、弟子たちに「このように祈りなさい」と教えられました。 この主の祈りに続いて本日のたとえ話をされました。このたとえの言わんとすることは、真剣で一途な祈りは 必ず聞かれるということです。主の祈りを補強する意味でこのたとえが用いられているとも言えます。

 このたとえは、いくつかの真理を示しています。友と友の関係にも限界がある。友から求められても、 必ずしもいつも友の必要を満たすことができるわけではない。一方で私たちと神様との関係は、父と子の関係である。 その父と子という信頼関係を土台として、天の父にしつように祈る、そうすれば天の父は「良いもの」を 与えてくださる…、と教えるのです。

 そして神さまは、最も良きものとして聖霊を与えると約束されているのです。

 ところで私たちクリスチャンは、なぜ祈らねばならないのか、原点に返ってみましょう。 どうして牧師は、「祈り、…祈り」と「しつように」求めるのでしょう。 第一は、イエスさま自身が私たちに「祈りなさい」と命じているからです。生涯祈りの人であった主に従うために、 私たちも祈りの人にならなければなりません。第二は、「祈り」には力があるからです。 創世記から黙示録に至るまで、聖書は祈りに力があることの証明に満ちているのです。 祈りは病人を癒し、死人をよみかえらせ、おびただしい数の魂の回心をもたらしました。

 私たちは、祈りの偉大な力を信じて、天の父が約束してくださった「良い物」を「しつように」 求め続けていきましょう。(山本修一師)

祝宴への招き マタイによる福音書 22:1〜14 

2012.8.19の説教断片
(落合教会では大人と子どもの合同礼拝が行われたため、津山城西教会にて語られたメッセージを掲載します)

 王様の王子の婚宴に招かれることは、最大の祝福であり、栄誉であり、喜びのはずでした。 しかし招待客(ユダヤ人)は、王様の招きを拒否し、自分の都合(畑や商売など)を優先しました。 やむなく王様は、通りで見かけた客(異邦人)をだれかれとなく招きました。 このたとえから、私たちが神の祝宴に招かれていることを理解できます。もう一つ話が続きます。 婚宴の席に礼服を着て行かなかった人が追い出されるというハプニングがあり、最後に「招かれる客は多いが、 選ばれる人は少ない」という言葉で結んでいます。

 私たちは、ふだんの生活の、小さな出会いを通して、神さまからの招きが伝えられています。 誰でも主イエス・キリストを信じる者は、天国の祝宴に招かれているのです。 この世において天皇の祝宴に招待されることは不可能なことですが、創造主である神の宴に招かれていることは、 なんとすばらしいことでしょう。私たちは、神の祝宴への招きを真に感謝し、期待し、 もっとも大切なものとして受けとめていきたいものです。

 礼服を着るとはどんな意味をもつのでしょう。当時、王様の側で用意された礼服を着て、 宴席に出ることが求められていたように、私たちも天国の祝宴では「キリストを着る」ことが求められています。 こんなふさわしくない者を招いてくださり、喜びの宴にあずからせてくださる、その主なる神様に心から感謝する、 そういう心が「礼服」に象徴されているのです。

 聖日ごとの教会の礼拝も、神さまの招きです。その招きに答えて、どんな思いを献げているでしょうか。 招待を拒んだユダヤ人のように、自分の安易な都合を最優先にして、主の招きを拒否していることはないでしょうか。 主を喜ぶ生き方とは、礼拝を守っていくことです。(山本修一師)

聞く耳のある者は聞きなさい ルカによる福音書 8:4〜15 

2012.8.12の説教断片

 有名な「種を蒔く人」のたとえです。

 古代イスラエルでは、耕す前に種を蒔くのが普通であったようです。ルカ書によれば、四種類の土地に落ちた種が、 どのような運命をたどるかが平易に書かれています。このたとえでは、種が育つために、土壌(人の心)の質が 成長のカギと考えられます。

 主は「大勢の群集」の前で、このたとえを語られました。み言葉である「種」は、だれの心にも惜しみなくまかれているのです。 しかしみ言葉を聞く姿勢は人によって千差万別です。このたとえは、み言葉を聴く人の聴き方、姿勢を問うているのです。

 皆さんが、一週間前の説教でお聴きになった、み言葉はどうであったでしょうか。主がまいてくださった種です。 空の鳥(サタン)が来て食べてしまったでしょうか。根付くことなく、枯れてしまったでしょうか。 茨(この世の誘惑・雑事)におおわれてしまったのでしょうか。それとも良く耕された良い地にとどまって実を結ばせているでしょうか。

 現代は、イエス様の時代とは違い、すべてが急速に変化、転換している時代です。たった一週間前のみ言葉を 記憶にとどめることですら、心もとない状態です。

 だからイエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」(8)と念を押され、さらに「大声で」強調されたのです。 私たちキリスト者は、1.善い心で御言葉を聞き、2.よく守り(行い)、そして3.忍耐することが求められているのです。(山本修一師)

あなたはどこにいるのか(主の前に出る5) 創世記 3:1〜10 

2012.8.5の説教断片

 7月から、「主の前に出る」とはどういうことかについて考えてきました。最後の5回目です。

 私たちの生きるこの世は、つらい、苦しい、悲しい現実の連続です。この理解できない現実の中で、 人間は「神とは何か」「神はどこにいるのか」と、いろいろ手を尽くし、探し求めているのではないでしょうか。 文学や哲学、歴史などの学問においても、大きな不変のテーマなのです。

 新約聖書のルカ15章には、99匹の羊を野原に残して、1匹の迷った羊を探し回る。やっと見つかると、 周囲の人々も巻き込んで大喜びする羊飼いが書かれています。このたとえから、神(イエス・キリスト)が 「1匹の羊」である私たちを探し求めておられること、悔い改めて、帰る「羊」を、どんなに喜んで迎えてくださるか理解できるのです。

 人間は、「神はいったいどこにいるのか」と問うている間は、神との真実な出会いはないでしょう。自分の手と力で、 神を発見しようとしても、決して見出すことはできないでしょう。神は人間によって発見される存在ではないのです。

 一方では人間は、罪のため神の顔を避けて生きています。神は人間を愛し、赦すために、謙遜で、罪を知る人間を 「あなたはどこにいるか」と探し求めておられます。人間は、神を探し求める存在ではなく、逆に神の声を聞くべき存在です。 神の「あなたはどこにいるか」という声に耳を傾けることによって、真の神との出会いがあるのです。

 わたしたちクリスチャンも、日々、神の「どこにいるか」との呼びかけを聞き、「ここにいます」と 率直に応答するものでありたい。(山本修一師)

過去のメッセージ

2012年7月2012年6月2012年5月


inserted by FC2 system