律法から信仰へ ガラテヤの信徒への手紙 3:15〜29 

2012.10.28の説教断片

 パウロは、「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」(15)と言います。 これを聞いたガラテヤの人々はすんなりと理解できたでしょうか。現代の私たちには、どこが分かりやすいか、 疑問をもってしまいます。私たちは聖霊によって理解を助けていただきましょう。

 旧約聖書の時代にさかのぼります。エジプトを出たイスラエルの人たちは、モーセの律法を守るどころか、 神に対する不服従と不信と背信をくり返し、偶像礼拝という裏切りを行ってきました。 カナンに定住し、王国まで築いたのですが、やがて分裂し、いっそう異教と偶像へのめり込んでいきました。 時が満ち、神の裁きにより、北イスラエルも、南ユダも崩壊しました。律法では人が救われることはあり得ませんでした。 これが律法の下にある人々の罪と律法の呪いの姿でした。現代の世の中の人々と何ら変わりありません。

 主イエス・キリストは、私たちのためにすべての罪と呪いを担い、十字架にかかって死んでくださった。 このために私たちはすべての呪いから贖いだされ、律法の束縛から自由にしてくださったのです。 今や私たちは、神の約束と恵みの中に生きているのです。パウロが言うように、私たちは「信仰により、 キリスト・イエスに結ばれて神の子」なのです。更にキリストに結ばれた私たちは、「キリストを着ている」(26-27) とパウロはいいます。私たちのこれからの務めは、このキリストに結ばれ続けることです。(山本修一師)

律法よりすぐれたもの ガラテヤの信徒への手紙 3:1〜14 

2012.10.21の説教断片

 一度は、「キリストの福音」を受け入れ、誕生したガラテヤ諸教会は、偽教師たちによってかき乱され、 危機的状況にありました。ユダヤ主義的な全く「別の福音」に乗り換えていました。 律法を守り、律法を実行することが救いの条件であるという「ほかの福音」に変わっていました。

 パウロは、「物分りの悪いガラテヤの人たち」と、感情むき出しの厳しい言葉で、叱ります。 律法と割礼を遵守しても、実は「律法の呪い」に服していると宣言します。 パウロは、イエス・キリストに出会う前は、誰よりも律法に精通し、熱心でありました。 その熱心さのゆえに教会を迫害していました。しかし律法主義的な生き方は、自力で自らを救おうとするものに過ぎず、 自分を誇るものである。結局は律法の下では呪われた者であることを、パウロは実体験として知ったのです。

 キリストは、十字架に架けられることにより、この呪いをすべて身に受け、この呪いから贖いだしてくださいました。 パウロはこの十字架の義と愛を信じる信仰を伝えたのです。それは神の恵みであり、「律法よりすぐれたもの」であります。

 「物分りが悪い」とは、誰に向けて語られた言葉でしょうか。聖書を見れば、第一にガラテヤ人であり、 次にガラテヤ人をかき乱した人たちにも向けられ、そして今生きる私たちにも向けられています。

 「物分りが悪い」とは「思慮のない」「愚かな」という意味です。いつの時代も、「物分りの悪い」私たちに向かって、 ときには厳しく、ときには包むように、神は呼びかけておられるのです。 聖霊をもって受けとめているでしょうか。(山本修一師)

死の彼方に ルカによる福音書 16:19〜31 

2012.10.14の説教断片

 私たちの生きるこの世(第一幕)は、まことに不公平と矛盾と差別に満ちています。 ラザロの人生は悲惨そのもので、寂しい死を遂げました。金持ちは成功者で、毎日、ぜいたく三昧に暮らし、 近くの貧者を顧みることはありませんでした。 しかし来世(第二幕)に移ると、ラザロはパラダイスで宴席について楽しみ、金持ちは陰府で炎の中、 苦しみもだえていました。そしてこのラザロと金持ちとの間に、「大きな深い淵」があり、決して行き来できませんでした。

 私たちの死後には、決して知り得ない、不安と恐怖と絶望を抱かせる別次元の世界があります。 この金持ちとラザロの物語は、「人間死んだらどうなるか」について多くの示唆を与えてくれます。 もし死後の世界と永遠のいのちというものがなければ…、キリストの復活と審判がなければ…、 この世でのクリスチャンの生活はまことに空しいものとなるでしょう。

 しかし私たちクリスチャンは、「死の彼方に」三つの希望が与えられています。 第一は、父なる神と主イエスにお会いできる希望、第二は、天国で愛する人と再会できる希望、 第三は、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」天国で永遠に生きることができる希望です。

 聖書は全体を通して、この世においてどのような生き方をすべきかを問うています。 その生き方によって、人間の死後の運命を二分してしまうことを伝えています。 神さまは、「モーセと預言者」(聖書)の言葉によって、私たちを悔い改めへ、神の恵みへと招いてくださっているのです。 聖書に耳を傾け、神さまのもとに立ち帰り、主イエス・キリストに従う道を歩んでいくことが求められています。(山本修一師)

もはや私が生きているのではなく ガラテヤの信徒への手紙 2:15〜21 

2012.10.7の説教断片

 「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです」(20)。

 何度も聞いているところの有名な言葉です。このみ言葉こそ、頭で完全に理解することよりも、 生きておられるキリストを体験することを目標としていただきたいのです。

 ところでイエス・キリストが十字架につけられた時、パウロはそこにいませんでした。 なぜパウロは、キリストと共に十字架につけられたなどと書いたのでしょう。 どうして私たちも、2000年前の歴史上のイエスとどんな関わりがあるのでしょうか…。

 これは時間も空間も超えた霊的な事がらです。イエスの十字架の死は、昔の、今の、これからの出来事なのです。 イエスと共に十字架につけられた(と信じる)人は当然死んでいます。つまり罪にとらわれた古い私たちは死んだのです。

 クリスチャンは新しく生まれた存在です。キリストが私のうちに生きておられることを認めたときに何かが変わります。 「イエスさまのようになりたい」を言わなくても、イエスさまの命が内にあるのです。 キリストの心が、愛が自然に伝えられます。キリストが、私たちのうちに、生きておられるからです。(山本修一師)

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