霊の結ぶ実 ガラテヤの信徒への手紙 5:16〜22 

2012.11.25の説教断片

 クリスチャンの人生の最終目的は、「天国に行くこと」「永遠の命を獲得すること」です。 とするならこの世に置いての目標は「キリストの似姿になること」「聖化されること」「御霊の実を結ぶこと」でしょうか。 これらの目標のためにクリスチャンは成長しなければならない。パウロは成長することは走り続けることと言います。 それも「賞を得るように」と言います(Tコリント9:24)。

 私たちは、目の前に置かれている私たちのレースを、最後まで走り続け、ゴールの栄冠を手にしなければなりません。 「…年をとったから、わたしはもう走れませんよ…」と言われる人がいます。年をとったから最後のスパートではないでしょうか。 天国の入り口の前にもサタンが構えているのです。キリスト者としてゴールを目指して、一心に走りたいものです。

 「霊の結ぶ実」は9つ例示されていますが、御霊の実は一つ(単数)です。全部が相互に関連して、 一つの「品性」となるべきものです。神さまは私たちに何を求めておられるのでしょう。 私たちがこの世で何を行ったか、どんな奉仕をしたか、いくら献金したかではありません(パウロがきっぱりと否定していた)。 私たちが御霊により、どのようなものに変えられたか、御霊の実に結ばれた性質、すなわちキリストの品性を備えるものになったかが 問われるのです。そして御霊の実は、一部のクリスチャンではなく、すべてのクリスチャンに豊かに結ぶことが求められているのです。(山本修一師)

内にキリストが形づくられる ガラテヤの信徒への手紙 4:12〜20 

2012.11.18の説教断片

 今朝のメッセージの結論は、「私たちのうちに、キリストが形づくられる」(19)ことであります。 パウロの願いは、1.ガラテヤの教会の人々がもう一度、キリストの福音に立ち返ること、 2.一人一人がしっかりとキリストと結びつくこと、3.キリストの福音を証しする者として立つこと、でした。 それがパウロが「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(19)と言わんとした言葉の意味です。

 私たちは、この言葉をどう理解すべきでしょうか。

 第一に、私たちの内に、キリストがあざやかに「形づくられる」(19)まで、 絶えずみ言葉によって変えられなければならないということです。「キリストに形づくられる」 ことがキリスト者としての成長の目標です。

 第二に、人が常に新しく生まれ変わるためには「産みの苦しみ」(19)を必要とする、ということです。 苦しみを伴わないクリスチャンの成長はあり得ないのです。私たちは、「キリストのために苦しむことも、 恵みとして与えられている」(フィリピ1:29)のです。

 第三に、パウロは、ガラテヤ教会の人々の不信仰を正すために、自分の方から先ず「語調を変えて話したい」(20) と言います。パウロはここでも主にある謙遜を示してくれました。「過去」と「人」を変えることはできません。 私たちは自分のことを棚に上げて、相手が変わることを要求します。人を変えるには、自分が変わらなければなりません。 人間関係、夫婦関係、友人関係…すべてに言えることではないでしょうか。(山本修一師)

アッバ、父よ ガラテヤの信徒への手紙 4:1〜11 

2012.11.11の説教断片

 「アメージング・グレース」(聖歌229)は、世界中で、魂が揺さぶられる讃美歌として有名な曲です。 その作詞者は、ジョン・ニュートンです。ニュートンは一人っ子でしたが、信仰深い母に育てられました。 しかし7歳のとき母を亡くし、11歳で船乗りになり、やがて奴隷貿易に手を染め、巨万の富を得ました。 22歳の時に船上で嵐に遭い、神に救いを求め、回心しました。その後船長を辞め、一転して牧師になり、 多くの讃美歌を編んだのです。彼は、生涯、自分はいったい何者だったか、どこから救われたのか、 どのように変えられたのか、ということを忘れませんでした。彼が最も大切にしたみ言葉は、 「エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい」(申15:15)であり、 壁に掛けて記憶していたとのことです。彼は自分の墓碑銘にこう刻みました。 「ジョン・ニュートン/牧師/かつて罪深き放蕩者の無神論者であり、奴隷貿易をなりわいとする。 われらの主イエス・キリストの深き慈愛によって救われし男/ 救われてのちは神のしもべとしてその福音を伝えるべく生まれ変わりしもの」。

 ニュートンの墓碑銘には、自分を誇るものは何もなく、ただ神によって、こんな「ろくでなし」の自分が変えられたことは、 「アメージング・グレース」(驚くばかりの恵み)と主を讃えたのです。

 私たちも、キリストの十字架と復活により、あふれる恵みを受けました。今や、主イエス・キリストにより、 罪が赦され、神の子とされ、「アッバ、父よ」(パパ、お父ちゃんの意)と呼ぶことがゆるされるようになったのです。 これもアメージング・グレースではないでしょうか。(山本修一師)

死は勝利にのみ込まれた コリントの信徒への手紙一 15:50〜58 

2012.11.4の説教断片 〜美作落合教会 召天者記念礼拝〜

 死のイメージは何でしょうか。不可解、神秘、謎、恐怖、不安…でしょうか。誰にでも、平等にやってくるものなので、 恐れることはないのでしょうか。しかし他人事ではなく、自分の問題として意識すると、死はやはり不安で、怖いものです。 …死は肉親との永遠の別れになる。死ぬとき苦しいのだろうか。死んだらどこに行くのか。 …誰もが一度は考える、けっして生の延長線上にあるものではないことを確認します。

 パウロは、死の根底にあるものは「罪」であると言います。始祖アダムが罪を犯したことによって、 死が入り込んだのです。さらにパウロは「死のとげは罪…。罪の力は律法です。」(56)と強調します。 罪があるからこそ、死が恐いのです。

 かつて私たちは、自らの罪のために、律法と死と呪いのうちに生きていました。 しかしイエス様が私たちの罪のために十字架に架けられ、葬られ、三日目に復活されたことによって、 主イエスを信じる私たちに復活の恵み、永遠に生きる希望を与えてくださいました。すでに死は、 主によって、勝利にのみ込まれたのです。

 聖書は、死の彼方には、すなわち死の向こう側には、もっと希望と輝きに満ちた世界があることを示しています。 死とは、私たちが、もっと素晴らしい世界に移されていくときの一通過点なのです。(山本修一師)

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