成長させてくださる神 コリントの信徒への手紙(一) 3:1〜9 〜年末感謝礼拝〜 

2012.12.30の説教断片

 聖書がキリスト者に求めるものは「成長」です。信仰者は成長しなければなりません。高齢になっても成長は止まりません。 亡くなる瞬間まで成長し、天国に入るにふさわしい器に整えられていくのです。「だから、私は落胆しない。 たとえ私の外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Uコリント4:16)。 なんと慰めと希望に満ちた言葉ではないでしょうか。

 教会学校に、ソロバンと少林寺拳法を習っている子がいますが、聞くたびに昇級しています。 上達しているのがとてもわかりやすいのです。

 ところが信仰の成長は目に見えるものではありません。教師や牧師の力量も、信徒自らの努力も必要です。 「しかし、成長させてくださったのは神です。」成長の秘密は神にのみあり、最終的に「忠実な良い僕だ。よくやった。」 と評価してくださるのも神さまです。

 教会の成長、人の救い、伝道の拡大、神の国の前進など、「霊的なことがら」について、種まく人や水を注ぐ人はいても、 成長させてくださるのは神さまなのです。

 本日の聖書の箇所では、パウロは、キリスト者として肉の人から霊の人に、乳飲み子から成熟した大人の信仰へ、 自分の思いを通す信仰から神の御心に従う信仰に成長するように、強く促しているのです。(山本修一師)

その方によって生きる ヨハネの手紙(一) 4:7〜17 〜クリスマス礼拝〜 

2012.12.23の説教断片

 クリスマスのメッセージは、「神は独り子を世にお遣わしに」(9)なったということです。 ではなぜ父なる神は、独り子イエスを、この世にお遣わしになったのでしょうか。それは「その方によって、 生きるようになるためです。」(9)。「その方」とは主イエス・キリストです。 私たちが、主イエス・キリストにあって生きるようになるためです。

 私たちが、キリスト者になったのは、金持ちになったり、事業が成功したり、すてきな人と結婚したり、 …何事もない平和な、安楽な日々を生きるためではありません。健康が支えられ、病気のない人生を歩むためでもありません。 「その方によって、生きるようになるためです。」

 母マリアは、天使から「身ごもって男の子を産む」との驚天動地のお告げを受けました。 しかし「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(38)と受け入れ、 服従した時から「その方によって生きる」ものとされました。 父ヨセフはマリアへの愛と世間(律法)との間に立って煩悩しましたが、「この子は自分の民を罪から救う」 との神の言葉を信じた時から、「その方によって生きる」ものとなりました。 社会から差別されていた羊飼いたちは「天使の」お告げを受け、疑わず、真っ先に駆けつけ、御子を礼拝しました。 その時から「その方によって生きる」ものとされ、社会の人々に伝え、賛美して帰っていきました。 東方の博士たちも、名誉も仕事も財産もすべて献げ、はるか遠き地から、御子イエスを礼拝するためにやってきました。 その時から彼らは「その方」によって生きるものとされ、「別の道」を歩むものとされたのです。

 このクリスマス、もう一度「その方によって生きる」かどうか、自分に問うてみようではありませんか。(山本修一師)

飼い葉桶に眠るキリスト ルカによる福音書 2:1〜21 

2012.12.16の説教断片

 この短い章節の中で、「ベツレヘム」と「飼い葉桶」が3回も繰り返されて、強調されています。

 「ベツレヘム」は、「ダビデ王の出身地」であり、旧約の預言どおりに、そこに再び救い主が誕生すると期待されていました。 この「ベツレヘム」に本当に救い主が誕生したことを、ルカは心の底から喜びをもって語るのです。

 「飼い葉桶」は私たちの目から見ればただの家畜のえさ箱にすぎませんが霊的に意味するものは、救い主の貧しさであり、 低さであり、謙虚さであります。

 私たちの神は圧倒的な権威と軍事的な力によって、「上から」人々を救おうとされたのではありません。 私たち人間には全く及びもしなかった方法を用いられました。とことんまで私たちを愛するがゆえに、 「下から」救おうとされたのです。イエス・キリストは、神の御子であるにもかかわらず、ご自分を無にし、 低くして人間のどん底(一番低い所)にまで降りてきてくださったのです(フィリピ2:6-9)。 世界で初めてのクリスマスはなんと暗くて、貧しい、粗末なクリスマスだったことでしょうか。 それを象徴するのが「飼い葉桶に眠るイエス」でした。

 ベツレヘムの家畜小屋で生まれた「飼い葉桶に眠るキリストを見よ」、 これが聖書の伝えるクリスマスのメッセージです。(山本修一師)

どうしてそのようなことがありえましょうか ルカによる福音書 1:26〜38 

2012.12.9の説教断片

 祭司ザカリアは、「妻エリザベトに男の子が生まれる」との天使のお告げに対して、「何によって、 わたしはそれを知ることができるのでしょうか」(1:18)と応えました。半年後、マリアも同じ天使から、 突然「おめでとう、…あなたは身ごもって男の子を産む」(1:31)と告げられ、 「どうしてそのようなことがありえましょうか」(34)と戸惑いました。

 このザカリアとマリアの応答の言葉だけを比較しても、よくわかりません。翻訳上の問題もあります。 聖書によれば、ザカリアは疑ったことで、口が利けなくなり、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」(28) と素直に従い、大きな祝福を受けました。

 ザカリアは祭司という仕事柄、聖書を読み、預言を理解し、人々に伝えていく務めと責任がありました。 にもかかわらず天使の告知を疑ったことで、口が利けなくなったのです。

 「身ごもって男の子を産む」、マリアに告げられたことは驚くべきことでした。 人生がこれからという少女にとっては過酷な運命を告げるものでした。「未婚の母」は、今日の日本では珍しくないのですが、 当時のユダヤでは、婚約中の女性が(他の男性との間に)身ごもることは、軽蔑と非難そして村八分の対象となり、 ときには「姦淫の罪」として石打の刑にされることでした。マリアはたかだか15歳前後の乙女でしたが、 これから予想される厳しい社会の現実を受けとめ、あえて目に見えない神の祝福を選び、神の真実に期待しました。 天使の告知は驚くべきものでありましたが、マリアの信仰と謙遜と従順も驚くべきものでありました。(山本修一師)

主の道をまっすぐにせよ ルカによる福音書 3:1〜20 

2012.12.2の説教断片

 アドベント第一主日を迎え、クランツに一本の紫色のローソクがつきました。紫は「悔い改め」を示すと言われています。

 バプテスマのヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(ルカ3:4)と悔い改めを呼びかけました。 この「主の道」とは、主なる神が私たちに救いをもたらしてくださる「道」、「信仰という名の道」、 「わたしは道である」と言われた「イエス・キリストの道」です。ヨハネは、主の道を整えるために悔い改めの必要を訴えました。

 ヨハネの時代には、ローマ帝国に支配され、ユダヤの宗教は形式だけのものとなり、神殿は腐敗し、 人々の心は希望のない、まるで暗闇の時代でした。現代は高度に文明が発達し、ものが豊かになり、便利になり、 聖書の時代とは比べものにならないほど成熟しています。しかし霊的に見ればもっと暗闇の時代と言えるかもしれません。 霊性は貧しく、罪性は鈍感となり、神への畏敬の思いははるかに乏しくなっていないでしょうか。

 なぜ、イエス・キリストは、神の子であるにも関わらず、この世にお降りになり、十字架に死んで、 私たちの罪を贖ってくださったのでしょうか。クリスマスを前に、もう一度、ご降誕の意味、目的、 そして悔い改めについて考え、私たちの心を点検しましょう。(山本修一師)

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