キリスト者はこの世のものではない ヨハネによる福音書 17:14〜19

2013.1.27の説教断片

 イエス様も、弟子たちもこの世のものではありません。そして主イエスを信じる私たちも、この世のものではありません。

 かつて私たちは、この世の主権者(サタン)のもとに、罪と死と絶望の中に生きていました。 したしイエス様が私たちを選び出し、贖ってくださり、罪から引き上げてくださいました。 聖霊によって、新しく生まれ変わり、天国の民となったのです。この世のものではない…罪を赦され、 救われて神の家族の一員として歩むものに変えられたのです。もはや私たちの帰るべきところは神の国であり、 …すでにこの世に属するものではないことを信仰をもって受けとめるべきです。

 私たちが神の国の民として生きようとしていくとき、この世では少なからず戦いが生じます。 これは血肉に対するものではなく、悪の諸霊にたいする目に見えない戦いです。この戦いを避けようとして、この世と妥協し、 調子を合わせるなら、塩味を失ったクリスチャンにすぎません。人々は、私たちが地の民から主の民に変えられたことを憎むのです。

 クリスチャンは、この世において、前向きで、真面目で、人々から愛される一面をもっています。しかし主イエスは 「世は彼らを(私たちのこと)憎みました」(17)というのです。クリスチャンであるということだけで、迫害と憎しみの対象となってきた、 歴史が証明するところです。クリスチャンが真剣にキリストの福音と信仰を伝えようとするとき、 サタンは必死の妨害と抵抗を示すからです。(山本修一師)

救いの達成に務めなさい フィリピの信徒への手紙 2:12〜18

2013.1.20の説教断片

 フィリピ教会はパウロを愛し、パウロを忠実に支援した教会でした。しかしフィリピ教会にも争い、対立、 不一致がありました。パウロは教会が一致するために、まず互いが謙遜になることを説きました(2:3)。 続いて自分の救いの達成に務めなさい(2:12)と喝破したのです。

 しかしどうもパウロは矛盾したことを言っていないでしょうか。これまでにパウロは、救いは、 われわれ人間の行いや努力などで獲得できるものではなく、ただ一方的な神の恵みを信じることによって救われる…と、 口をすっぱくして説いてきました。それを今さら、なぜ「自分の救いの達成に務めなさい」というのでしょう。

 そうではなくて、キリストの十字架によってすべての罪がゆるされた、新たに生まれ変わった、 …確かに信仰によって救われたのです。しかし救いは、初歩にとどまってはならず、 完成に向けられていくための努力が必要です。それは、心をつくして神の愛に信頼し、キリストの愛に応えていく努力であります。 その一つの応答として、パウロは、自分の肉を頼りにしているものを、「塵あくた」(ふん土(8))のようにみなすようになったのです。

 私たちも、自分の持てるものをキリストのゆえに捨てられるかどうか、 最終的には自分さえ捨てられるかどうか問われているのです。(山本修一師)

イエス・キリストを知る(2) マタイによる福音書 16:13〜20

2013.1.13の説教断片

 「イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」を味わうことが、今年の教会の、私たちの目標です。 先週は「イエス・キリストについて知る」ことと「イエス・キリストを知る」ことの違いについてお話ししました。

 今週も「イエス・キリストを知る」ことの意味をもう少し学んでいきます。

 第一に、「イエス・キリストを知る」ことは、イエスを愛すること(創世記4:1)です。 クリスチャンになりたての頃は、「イエスを知る」ことは楽しみであり、ワクワクするような喜びでした。 「イエスさまを知って良かった」と感動すら覚えたものでした。知ることは愛すること、知れば知るほど愛は増します。

 第二に、「イエス・キリストを知る」ことは永遠の命を獲得することです。主イエスはゲッセマネの祈りの中で、 永遠の命は父なる神とイエスを知ることであると言われました(ヨハネ17:4)。 永遠の命を得たものは、キリストを見たことがないのに愛し、見なくとも信じ、素晴らしい喜びに満ちあふれています(Tペトロ1:8,9)

 第三に、「イエス・キリストを知る」ことは、それによって私たちの生き方が変わることです。 私たちの考えや生活に重大な変化が起こっていないなら、キリストを知った、とは言えません。

 最後に、「イエス・キリストを知る」ことは、あなた自身の目で、あなた自身の耳で、あなた自身の体験の中で 「知る」ことが大切です。イエスとは何者なのでしょう。私たちは主イエスのことをどこまで知っているでしょうか。(山本修一師)

イエスを知ることのあまりのすばらしさ フィリピの信徒への手紙 3:5〜14 〜新年礼拝〜 

2013.1.6の説教断片

 フィリピ教会に向けられたこの手紙は「獄中書簡」といわれ、パウロが牢獄の中で書いたと言われています。 そもそもが不当な逮捕であり、ムチによるケガの痛みもありました。いつ死刑にされるかもしれない不安と恐怖もありました。

 なぜパウロは、暗い、冷たい、不潔な牢獄の中で、「喜びます」「喜びなさい」と、「喜び」を強調していたのでしょうか。 パウロは拘禁によって、神経異常をきたしたのでしょうか。聖書の不思議の一つです。その秘密の鍵は、復活のキリストでした。 パウロは、過酷な牢獄内でうめいていたというより、復活のキリストの中に生かされ、栄光のキリストと共にいたからです。

 そのパウロが「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を力説しているところが今年の標語聖句です。 なぜ「キリストを知る」ことがそんなにすばらしいのでしょうか。

 「イエス・キリストについて」の知識を聖書から広く、深く学ぶことは大切です。聖書を多く読み、 深く読むのは生涯の目標です。しかしそれ以上に大切なことは、知識のレベルにとどまらず、真に「イエス・キリストを知る」ことです。 それは「生きたイエスに出会う」「生きて働けるイエスを実感する」「私たちの魂に語りかけるイエスの声を聞く」ということです。 これらは主との霊的交わりの中で求めていくものであり、恵みとして与えられるものです。

 この新しい一年、このみ言葉を味わいつつ、「イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」を勝ち得ましょう。(山本修一師)

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