2013.2.24の説教断片

三位一体の神とは何ですか(日本基督教団信仰告白(3)) コリントの信徒への手紙(二) 13:11〜13

 「三位一体の神」とはよく聞く言葉です。しかし「よくわからない。もっとわかりやすい説明が欲しい。」 確かにその通りですが、神さまは、不自由な人間の言葉では表現できない面があります。その一つがこの三位一体という言葉です。

 聖書は、御父も神、イエスも神、聖霊も神であると教えています。しかし「三位一体」という言葉は出てきません。 どうして「唯一の神」なのに「三位一体」なのか。三者はどういう関係にあるのでしょうか。

 神は確かにお一人です。お一人でありながら、三つの形をとる、三つの姿をとる、三つの役割を持っておられる、 それが三位一体の意味です。ある程度のことは理解できますが、究極的には人間の頭では理解することができません。 しかしながら、だからといってこの教理が真実でないとか、聖書の教えに基づいていないとか言うわけではありません。

 キリスト教会は誕生してから、次から次へ異端の信仰が入り込み、それと戦ってきました。 「イエスはもともと人間であったが、神の養子になった」「神とキリストは同質ではない」「キリストは父なる神よりも劣る神である」… さまざまな異端が現れました。それらの間違った教えと戦うなかで、この「三位一体」という教えを定着させたのです。 三位一体という「言葉」を生み出すために200年かかり、この教理が定着するのに400年かかったのです。そして多くの血が流れました。

 私たちは、何がなんでも三位一体の神を理解しなければ救いにあずかれないということではありません。 現に、礼拝において、洗礼、聖餐式において、さらには祈りにおいても三位一体の神を拝しているのですから。(山本修一師)

2013.2.17の説教断片

聖書とは何ですか(日本基督教団信仰告白(2)) テモテへの手紙(二) 3:10〜17

 「日本基督教団信仰告白」の第2段階を学びます。この中で、聖書は「神の言葉」であるといわれます。 どうして神の言葉といえるのでしょうか。他の書物とどう違うのでしょう。聖書は、66巻すべてが出来上がるのに1500年〜1600年かかり、 40数人の筆者の手によるものです。その筆者たちは、王や預言者、漁師、テント職人など様々な職業、生活様式の異なる人たちです。 これらの人たちに記された内容は、歴史、法律、預言、詩、福音書、手紙など多種多様なものでした。 まことに不思議なことに、出来上がった聖書は一つの統一したテーマに貫かれていました。 「今おられ、かつておられ、やがて来られる」イエス・キリストを証しするものでした。たしかに人間の手を通して書かれたものですが、 神の導きで、いや神ご自身がその筆者たちの思想と言葉を整えて書かれたと、キリスト者は信じています。 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です」(Uテモテ3:16)。 だから私たちは神の霊の導きの下に、聖書を正しく理解するときにのみ、聖書のみ言葉が生きた神の言葉になるのです。

 神の言葉は、天地を創造し、あのホレブの山を轟かせ、使徒時代には大地を動かした、と言われるぐらいに力あるものでした。 その神の言葉が見えなくなった現代においても、その力は持続されて働いているのです。

 今のような時代だからこそ、神の言葉(聖書)は、私たちを変え、考え方を変え、そして人生観を変えるものであると信じ、 期待しましょう。私たちは生きた神の言葉により決定的な影響を受けてみようではありませんか。(山本修一師)

2013.2.10の説教断片

信仰とは何ですか(日本基督教団信仰告白(1)) マタイによる福音書 14:22〜33

 2月は、日本基督教団信仰告白を通して、「キリスト教信仰のエッセンス」を学んでいきます。第1回目は「信仰とは何ですか」です。

 「信仰とは何ですか」と大上段から言われても、とても答えられそうにありません。キリスト教信仰は、単に私たちの幸せを、ご利益を、 さまざまな問題の解決を、病気の癒しを求めることだけではありません。本日は「信仰とは主の招きに応答すること」を学んでいきます。

 「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(マタイ14:29)驚くべき箇所です。 強い逆風が吹き、船は木の葉のように揺れていました。船は沖合から何百メートルも離れていました。 時刻は「夜の明ける頃」でまだ真っ暗でした。そんな状況で、湖上に立つイエスは、ペトロに「来なさい」と命じました。 船から降りて、嵐の湖の上を歩く命令などあり得るのでしょうか。主は私たちの目に見える現実の世界では、可能か不可能か、 湖の上を歩くことができるかどうかが問われます。しかし目に見えない信仰の世界では、主イエスがおられるかどうか、 「来なさい」との招きに応えられるかどうか、命を懸けてもそばに行きたいという思いがあるかどうかが問われるのです。 その時ペトロは、舟からおりて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」。これが信仰です。(山本修一師)

2013.2.3の説教断片

富に生きず、富を生かす 申命記 8:11〜20

 約束の地カナンに入る前に、モーセは長い告別説教をします。ここでモーセは、神は「富を築く力」をあなたに与えられた(17)と言います。 当時のイスラエルの民に向かって語られたのですが、現代に生きる私たちも「富を築く力」が与えられているというのです。

 この世で貧乏してきたし、そんな力があるわけはないと疑われる方もおられるでしょう。「タラントンの譬え」(マタイ25:14〜) を読んでみましょう。主人(神)は、出掛ける前に、しもべ一人一人にタラントン(多くのお金)を預けられたのです。 私たちも主から大きな(資金・賜物)を預けられ、それによってより大きな富を築くことが期待されているのです。

 しかし私たちは神さまのご計画より、まわりの人を見て「私に託された資金は小さい。私の持つ能力は乏しい。これでは何もできない」 と不平・不満を並べます。

 ここでいう「富」とは、「飲めや歌えや」の生活をするための経済的な「富」ではなく、もっと広い豊かな「富」のことを言います。 大切なことは、与えられたタラントンが小さくとも、それを増やしてお返しする忠実な意思を持っているかどうか、そして築いた富を神のため、 人のために生かそうと考えているかどうかです。

 アメリカの鉄鋼王で大成功を収めたA.カーネギーは言いました。「富は決して自分のものではなく、自分に預けられたものに過ぎない。 富を持ったまま死ぬのは恥である。」「富に生きず、富を生かす」のはクリスチャンとしてふさわしい生き方です。(山本修一師)

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