2013.3.31の説教断片

★イースター礼拝 わたしは主を見ました ヨハネによる福音書 20:1〜18

 かつて、マグダラのマリアは、「七つの悪霊」(ルカ8:2、マルコ16:9)を追い出していただいたことから、誰より主イエスを愛した女性でした。 多くの罪をゆるされ、多くの愛をささげたゆえに、復活の主イエス・キリストに初めてお会いすると言う栄誉も受けたのです。

 イエスが十字架につけられてから、マリアは失意と挫折と悲しみのどん底にありました。もうイエスはいない、思うたびに胸が裂かれる、 …暗い、つらい、苦しい安息日を過ごしました。週の初め、真っ先にかけつけ、空っぽの墓を見出したとき、 再び大きな悲しみに包まれました。マリアは墓の前にたたずみ、主を思って泣いていました。そのとき主がマリアを呼ばれました。 後ろを振り向くと復活の主イエスが立っておられました。再び主イエスにお会いし、一転して喜びに変えられたのです。

 このマリアの話を通して多くを学びます。第一に、復活とは、復活の主イエスに名を呼ばれ、語りかけられることであり、 それによって霊的に覚醒したり、人生が方向転換するのです。私たちもみ言葉との出会いによって、変えられていくのです。 第二に、復活とは、人生の暗闇の中から光や希望が見えるようになることです。マリアの苦しみに苦しんだ三日の後の喜びと希望は、 イエスを信じる私たちにも与えられるのです。第三に、復活とは目に見えなかった主イエスが、「わたしは主を見ました」といえる(信仰告白) ようになっていくことです。(山本修一師)

2013.3.24の説教断片

イエスは十字架につけられた マルコによる福音書 15:16〜32

 主イエスの受難と、十字架の死の苦しみは、ゲッセマネの時から始まりました。それからユダの裏切り、裁判、ペトロの否認、 暴行・侮辱、弟子たちの離散、十字架の道行(悲しみの道)がありました。主イエスは、ゴルゴダの丘に連れて行かれ、 両手、両足に釘が打ち込まれ、十字架につけられました。主イエスが真ん中で、その両脇に二人の犯罪人、合わせて三本の十字架が立てられました。 その十字架の周辺は、イエスに対する悪意と嘲笑と呪いに包まれていました。祭司長・律法学者たち、通りがかりの人、 ローマ兵そして十字架につけられた犯罪人までも、イエスを迫害し、あざ笑うという一点においてまったく一致していたのです。 サタンの攻撃は、そこまで激しいものでした。主イエスは十字架に至るまで、そして十字架上において、どれほどの苦痛を忍ばれたでしょうか。

 聖歌399には「カルバリ山の十字架に付きて/イエスは尊き血潮を流し/救いの道を開き給えり/カルバリの十字架 わが為なり」とあります。 このイエスの受難と十字架は、だれのためであったでしょう。すべて人間の罪のためのものでありました。 当時の十字架にかけたユダヤの民のためのであり、その後の2000年のキリスト者のためのものでもありました。しかしまことの十字架は 「和達しの罪のためであった」と悟ることです。これがキリスト教の信仰の核心です。それは、一挙に与えられるものではなく、 聖霊の導きで、生涯かけて学び、獲得していくものです。(山本修一師)

2013.3.17の説教断片

義とされるとは何ですか(日本基督教団信仰告白(6)) ガラテヤの信徒への手紙 2:15〜21

 聖書によれば、私たちは生まれながらに、罪を背負って生きています。罪とは、根本的には神に背いて生きることです。 この罪のために、神さまとの関係は正常ではない関係、敵対関係にあります。しかし神によって選ばれ(理由はわかりません)、 呼び出され、洗礼を受けることにより、私たちは霊的に生まれ変わるのです。 それは見た目には何ら変わらないのですが、私たちは神の世界で生きるものとされたのです。

 「義とされる」とは、義人になった、正しい人間として認められたということでは決してありません。 神との関係が正しくされた、神の世界に帰ることが赦された、神との関係がイエス・キリストの贖いによって和解したということなのです。

 だから「義とされた」私たちは、神を「アバ父よ」(お父ちゃん)と呼べるようになった。御子イエスを救い主として告白できるようになった。 聖書を「神の言葉として」理解できるようになった。…これらこそ神の世界に入ったしるしではないでしょうか。

 もう一つ忘れてならないのは、「義とされる」のは決して律法の実行によるものではなく、 ただイエス・キリストへの信仰によるのです(16)。ただ神の恵みによるのです。

この恵みに応えて、神さまとの正しい関係がより深められるように、祈りつつ、歩んでいきましょう。(山本修一師)

2013.3.10の説教断片

神の選びとは何ですか(日本基督教団信仰告白(5)) エフェソの信徒への手紙 1:3〜7

 「神の選び」は、聖書を知らない人から見れば、神秘で不思議に満ちたことです。しかし聖書を神の言葉として受けとめる私たちにとっては、 最も厳粛で、最も恵みに満ちた教えと言えるのです。

 主イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのでではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)

 私たちは自分の意思で、この教会を選んだのでもありません。このキリスト信仰を選んだのでもありません。 神が私たちを選び、呼び出し、救ってくださったのです。救われるということは、私たちが何かをするということではなく、 神が何かをすることなのです。

 陶器師は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器にも、つまらないことに用いる器にも作ることができます。 陶器師の意思によるのです。本来ならば、私たちは壊されても仕方のない土の器にすぎません。ただ神さまは憐れみによってこの器をとりあげ、 生かし、用いてくださっているのです。陶器は陶器師の手の内にあるのです。 「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」(出3:19) 神は私たちをユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも選び、「憐れみの器」「祝福の器」として召してくださったのです。

 なぜ神さまはこの私を選んでくださったのでしょうか。「なぜ」を問うことよりも、私たちあhただ選ばれたことを喜び、 そしてその愛と使命にどう応えるべきかを考えていきたいものです。(山本修一師)

2013.3.3の説教断片

あがないとは何でしょうか(日本基督教団信仰告白(4)) ローマの信徒への手紙 3:25

 「あがない」を、現代の日本人が理解することはとても難しいのです。日本では動物を祭壇に献げて、 自らの罪をお詫びするという慣習はありません。恥の感覚はあっても、罪の感覚は乏しい。刑法犯ならともかく道徳的な罪などは、 水に流す、早く忘れる、細かいことは気にしない…という態度をとります。

 しかし罪は決して消えません。神さまは、罪に陥った人間を救おうと、一つの計画を立てられました。 御子であるイエスをこの世に送り、身代りに十字架にかける(全き犠牲)ことによって、人の罪と死から解放する、という計画でした。 「そんな計画なんてあったの」「全能の神ならもっと違った、スマートな方法がなかったか」、私たちは戸惑ってしまいます。 しかし人間の知識、知恵では到底神の知恵を理解できません。聖書が霊感を受けて書かれたものですから、 私たちも聖霊の導きなくして真に理解することは難しいのです。

 神の世界は、完全で輝きと美に満ちています。神は、独り子イエスを不潔で汚れに満ちたこの世に、人間として遣わされたのです。 しかもイエスを十字架にかけること、それによって罪と死から解放することが、初めから計画として定められていたのです。 父なる神ははらわたがちぎれるほど、辛く悲しい思いをして、御子イエスをこの世に送り、受難・十字架への道を歩ませられたのです。

 神の救いの計画は、神ご自身の激しい痛みを伴う、私たちに対する愛のゆえに行われました。本当の信仰は、 「十字架は、わがため」と受け止めるところから始まるのです。(山本修一師)

過去のメッセージ

2013年02月2013年01月2012年12月2012年11月2012年10月2012年9月2012年8月2012年7月2012年6月2012年5月


inserted by FC2 system