2013.4.28の説教断片

礼拝とは何でしょう 日本基督教団信仰告白(9) ローマの信徒への手紙 12:1〜2

 礼拝とは何でしょうか。

 第1に、「神の憐れみ(恵み)」(1)に対する応答です。パウロの言う「神の憐れみ(恵み)」とは、 神がイエス・キリストによって私たちを罪から救い出してくださったことです。かつて洗礼を受ける頃、その神の憐れみ(恵み) をおぼろげながらに理解した時は、どんなに感謝したことでしょう。この「神の憐れみ(恵み)」(1)に応答していくことが礼拝です。 この感謝の応答は、主日ごとの礼拝の時にささげるべき私たちの信仰の姿勢です。

 第2は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(2)ることが礼拝です。 旧約の時代では、礼拝するとき、動物などの犠牲をささげていました。しかし主イエスは、あの十字架の上で、ご自身を犠牲の子羊として、 神にささげられました。現代の私たちは何をささげるべきでしょうか。それは私たちのもてるものの一部ではなく、私たち自身を、 私たちの人生のすべてを、ささげなければならないということを教えています。

 第3は、「心を新たに自分を変えていただく」(2)時と場こそが、礼拝であります。私たちはこの世の中で生きていくとき、 世の影響を受け、いつの間にか世に染まっています。だから私たちも一週間ごとに礼拝に出て、心の点検をしていく必要があります。 私たちは礼拝において、聖霊によって、新しく造りかえられるものでなければなりません。聖霊によって、絶えず、内側から変えられていかないと、 この世にならうものとなり、この世の姿に戻ってしまうのです。(山本修一師)

2013.4.21の説教断片

教会とは何でしょう(2) 日本基督教団信仰告白(8) ローマの信徒への手紙 15:1〜6

 聖書にはさまざまなところで「教会の一致」が唱えられ、力説されています。

 教会においては、教会員の心と思いが一致すること、目的が一致すること、奉仕や希望が一致することが求められています。 最も求められるものは、愛による一致であります(エフェ4:1〜6)。パウロも、ローマ人への手紙の締めくくりとして、 「愛による教会の一致」を訴えました。

 パウロは、本日の聖書箇所では、ローマの信徒に対して「信仰の弱い人を受け入れる」(14:1)ように、 「強くない者の弱さを担う」(15:1)ように、「隣人を喜ばせるように」(15:2)強調しました。

 どうしてパウロは、クリスチャンは自分の満足を求めず、人を喜ばせ、人の利益を第一に考えて行動するように勧めたのでしょうか。 それはキリストご自身が決して「…ご自分の満足はお求めには」(3)ならなかったからです。むしろ自らが痛む(そしりを受ける) ことをしてまで、病む人たちを憐れみ、癒しをなされたのでした。

 キリストにある私たちクリスチャンの使命は、隣人を慰め、励まし、主にある希望をみ言葉を伝えていくことです。 人の助けになれたとき、人の励ましになれたとき、主からの喜びがあなたに届くのです。

 このように教会が一致するためには教会員一人一人の愛とへりくだりが必要なのです。そして教会の一致を保ち続けていくには、 忍耐も必要となります(5)。(山本修一師)

2013.4.14の説教断片

教会とは何でしょう(1) 日本基督教団信仰告白(7) エフェソの信徒への手紙 1:15〜23

 教会とは何でしょうか。パウロは「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェ1:28) であると言います。これは霊的な意味であり、これだけではよくわかりません。

 第1に、教会とは、三角の屋根の十字架のある建物を指すのではなく、「神の恵みにより、選ばれ、召された人たちの集う共同体」 というものです。第2に、教会は、キリストを信じる者にとって、「苦しいときの頼りになる避けどころ」であります。 一緒に、祈り合い、支え合い、寄り添っていくところです。「神はわれらの避け所また力である」(詩46:1口語)。 教会もいと近き「避け所」となります。第3に、教会とは、「いかなる時にも十字架を仰いで生きる群」であります。 人生の試練の中にあっても、ただ十字架に対する畏れと希望をもって生きている人たちの集うところです。 教会は2000年の間、同じ思いをもって歩んできたのです。

 私たちの現実の教会を見る目は正しいでしょうか。立派な建物かどうか、会員が多いか少ないか、 財政が豊かであるかなどを見て判断してしまいがちであります。最も大切なことは、聖霊が教会とともにおられるかどうかです。 そもそも聖霊が降臨した時、教会が誕生したのです。聖霊が支配していない教会は、神の前に弱々しい、力のない、貧弱な教会になります。

 私たちは、聖霊が支配し、聖霊が働く教会を目指しましょう。そのためにまず自身が聖霊に満たされるよう祈っていきましょう。(山本修一師)

2013.4.7の説教断片

もう泣かなくてもよい ルカによる福音書 7:11〜17

 「ナインのやもめの話」はとても美しく、感動的な話です。以前に読んでいたときは、この母親の息子のよみがえりのこと、 そしてその真偽のことばかりに心を奪われていました。たしかにこの物語は、主イエスの復活の希望を象徴する出来事でありました。 だからそれを見た人々は、怖れを抱き、神を賛美したのです(16)。

 この物語でもっと訴えてくるものがあります。主イエスの母親に対する熱き憐れみの心です。初めて出会った母親を見て、 主は瞬時にそのすべての悲しみを理解されました。この母親は、夫を失い、続いて息子まで亡くし、悲嘆のうちにありました。 主イエスはこの母親を「憐れに思い」、「もう泣かなくてもよい」と声を掛けられました。この「憐れに思い」は、 主イエスのみが用いる独特の言葉でした。翻訳では伝わってきませんが、元々の言葉の意味は「はらわたが痛む」ほどの激しい感情の動きを言います。 主イエスは、この母親を見て、それほど深い同情を示されたのです。

 最も学ぶべきことは、なぜ主は、一軒の母親に、そんな深い愛を向けられたかということです。 神さまはすべて人に対する愛の神さまです。同時に私一人の神さまです。母親に憐れみが注がれたように、私たち一人一人にも、 「腸がよじれるほどの愛」を注いでくださるのです。主イエスは、絶望している者、悲しみを抱えている者を、決して放っておかれない方なのです。 「もう泣かなくてもよい」と優しくお声をかけてくださるのです。

 今日、この主イエスの声を受けとめましょう。(山本修一師)

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