2013.6.30の説教断片

四重の福音 再臨 ルカによる福音書12:35〜48

 再臨信仰とは「主イエスがもう一度来られる」という信仰です。…その時、地上は新しい世界に、神の国に造り変えられます。死者が復活します。 主は、世界中からご自分に従う者を呼び集められます。一面、その日は、主を信じない者にとっては審判の日であり、「天は焼け崩れ、 自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」(Uペトロ3:10)という恐ろしい日となるのです。新約聖書には再臨に関する言葉が300回以上も告げられているのです。

 現代において、再臨信仰は語りづらい教理です。まともな常識を持っている教会人にとって、聖書が語る再臨は神話、 宗教的な幻あるいは古代の信仰として軽視されがちです。しかし私たちホーリネスは、再臨の信仰を四重の福音の一つとして大切にしています。 再臨は、父なる神の慈しみ深い救いの完成であり、主イエスの誠実な約束の実現であります。内村鑑三は「十字架が聖書の心臓であるならば、 さいりんはその頭脳であろう。再臨なくして従事かは意味をなさない」と力説しました。

 「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37)。さらに38節でも、43節でも目を覚まして主人を出迎えた僕たちは幸いだ、 と繰り返し、強調されています。そして信じられない驚くべきことが書かれています。主人が「僕たちを食事の席につかせ、…給仕をしてくれる」(37) というのです。こういう報いが神の国では用意されていると、主イエスは教えています。

 私たちは、「腰に帯を締め」「ともし火をともし」「目を覚まし」て霊的備えをし、再臨の主を待ち望みましょう。(山本修一師)

2013.6.23の説教断片

一粒の麦 もし死なずば 〜ホーリネス弾圧記念礼拝〜 ヨハネによる福音書12:20〜26

 今から68年前に、日本はアメリカと戦争をしていたこと、ホーリネス系の教会の牧者たちが信仰のゆえに弾圧・迫害・裁判を受けていたことなど… この平和な時代から、信じがたいことです。逮捕され、投獄された牧者自身も、当初はなぜ逮捕されたか信じられなかったのです。 確実に言えることは、拘束されてから、信仰が練られ、鍛えられ、筋金入りのものへと成長したことです。私たちがその信仰を継承していることは、 幸いなことです。牧者たちは、投獄の中で、「一粒の麦」として生きることを決意したのです。 「一粒の麦は、地に落ちなければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24)。

 聖書の中の「一粒の麦」は、主イエス・キリストを指しています。イエスさまはこの世に来られ、一粒の麦のように地面にまかれ、 底から芽を出し、成長し、多くの実を結ぶことになりました。イエスさまご自身は、自らの命をささげることによってのみ、 全ての人の命を生かすことをご存知でした。

 私たちも、イエスという一粒の麦が死んで、多くの実を結んだ、今なお結びつつある、これからも結ぶであろうことを、…聖書と歴史を通して知っています。 今日に生きる私たちは、イエス・キリストのように、人を生かし、人に幸福を与えるために、「一粒の麦」として自らをささげていくことが求められているのです。 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」(25)。(山本修一師)

2013.6.16の説教断片

四重の福音 神癒 マルコによる福音書 1:40〜45

 本日は、「四重の福音」の三番目で、「神癒」についてお話します。

 「神癒」とは何でしょうか。神癒とは信仰や祈祷によって病気が癒されることです。医療の手段を用いて病気が癒されることも否定しません。 それも主の祝福と恵みととらえることができるからです。しかし私たちは神癒を信じます。聖書を信じます。 今おられ、かつておられ、死からよみがえり、やがて来られる主イエスが、私たちの肉体の病を癒すことなど問題ではないと思うからです。

 この「重い皮膚病」患者は、法律上、社会上「汚れた存在」と見なされ、人々から隔離され、人間の不幸と悲惨の底辺に生きていました。 いわば生きながらの死人でありました。ある日、イエスの噂を聞き、イエスのところに行けば何とかなると、かすかな希望を持ちました。 しかしその途中で群集の中で見つかれば、石で打たれる危険もありました。そんな危険を冒して出かけて行っても、 こんな自分を受け入れてくださるか心配もありました。悩み抜き、決断し、命をかけて、イエスのところに行き、ひざまづいて願ったのです。

 この物語はなんと多くのことを示してくれるでしょうか。患者(私たち)のひたむきさが、主の心を動かすことがあるということです。 イエスは多くの人の病を、信仰を問わずに癒されたこともありました。しかし私たちは信仰をもってイエス・キリストの真の癒しを求めています。 それば肉体の病気の癒しではなく、究極的には罪の赦しであり、救いであり、そして神の御心を知る(「深く憐れんで」くださる)ことです。(山本修一師)

2013.6.9の説教断片

四重の福音 聖化 テサロニケの信徒への手紙(一) 5:12〜24

 今週は、「四重の福音」の2番目の「聖化」です。

 私たちは(かつて)洗礼を受け、新たに生まれ変わりました。これまでのすべての罪がゆるされ、心がきよくされました。 それが「新生」の恵みでした。しかし「きよくされた」というものの、実は「きよめの入り口・始め」に立ったに過ぎないのです。 新しく生まれ変わったキリスト者は、真の「きよめ」の恵みを受けなければなりません。それが「聖化」です。 聖化は、心の性質(罪の性質、原罪、罪の根源)がきよめられることを言い、聖霊と火のバプテスマによって焼き尽くされなければなりません。

 ある霊的指導者は言います。「聖化は新生の経験を経てこそ与えられるものである。新生の経験が不確かであると聖化の恵みは届かない。」 新生とは何かがよくわからない、あるいは新生の恵みが不十分であると思う方は、今一度原点に返って、キリストにあって罪に死に、 キリストにあって新たに生きることの意味をしっかり知る必要があります。

 テサロニケ信徒への手紙(一)には、二つの神の御心がはっきり書かれています(4章3節、5章16〜18節)。人間を想像した神さまは、 私たちを十字架の救いに導き、天国に招くために、「聖くなること」を願っておられるのです。最後にジョン・ウェスレーは 「常に喜び」「絶えず祈り」「すべてのことに感謝する」ことが、聖化の恵みに預かったクリスチャンの勝利の生活であると言います。(山本修一師)

2013.6.2の説教断片

四重の福音 新生 創世記 28:10〜22

 6月は、ホーリネスの弾圧記念の月であり、ホーリネスの信仰と伝統について学ぶ時をもっています。6月の礼拝では、 その強調する「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という教理について学んでいきます。

 本日はまず、「四重の福音」の基礎ともいうべき「新生」という主題を取り上げます。

 「新生」とは(霊的に)新しく生まれかわることです。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と主イエスは言われました。 新生するためには、二つのこと、悔い改めと信仰が必要です。「悔い改め」は自分は弱い、愚かな。駄目な人間だと嘆いたり悔いたりすることではありません。 それは自分が自分のことを判断し、嘆いているにすぎません。聖書の言う悔い改めとは、そのような自分から目を離して、主イエス・キリストのみ仰ぐこと、 その十字架の愛と苦しみにのみ心を向けるということです。「新生」の恵みは、私たちの努力や行為はまったく不要です。ただ主イエス・キリストを信じ、 ひたすら待ち望む姿勢が大切です。

 よくわからないまま洗礼を受けた、と言う方がいます。しかし「新生」によってイエス・キリストを信じるようになったこと、 心の内に聖霊が与えられたことは何よりも大きな変化・大きな喜びとして受けとめたい。そのほかの新生の恵みと祝福については、 聖霊によって理解できるよう、信仰によって勝ちうるよう求めていきましょう。

 私たちが、子どものような純真さと素直さをもって、父なる神さまに願い求めていくとき、何でも与え、教えてくださるのです。(山本修一師)

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