2013.7.28の説教断片

全能の父なる神 使徒信条(3) ローマの信徒への手紙8:14〜15、ヘブライ人への手紙12:5〜8

 神が全能であるなら、なぜ神の子である私たちの人生は、こんなに病気や災難、苦難や悲嘆に満ちているのでしょうか。

 私たちはいつも無力で弱く、はかないものですが、私たちの信じる神は、全能であり永遠の神さまなのです。 聖書は一貫して神は全能であると断言しています。しかし間違えてはなりません。全能の神さまは、私たちの望むように働かれる神さまではありません。 お賽銭を投げて願いをかなえてくれるのは、人間の自己中心に使える偶像のカミです。全能の力がどのような形で、どのような方法で用いられるかは、 神ご自身の自由な意思と計画によるのです。

 旧約時代においては、神は遠いところに…、高いところに…おられる存在でした。「わたしの父よ」などと親しそうに呼びかけることなどできなかったのです。 律法を聞いて、祭儀をとおして神の御旨を確認しました。

 新約時代に入り、イエスさまが、神が私たちの父であるということを、神に対して「アッバ、父よ」 と親しく呼びかけてもいいことを私たちに教えてくださったのです。

 父なる神さまは、何が何でも私たちを救おうと、イエス・キリストの十字架と復活に、全能の力を注がれたのです。またイエスさまは、 ゲッセマネの祈りの中で、その葛藤と苦悶の末、父なる神の全能にゆだねたのです。

 十字架の愛を知る私たちが…人生の矛盾や不合理、不幸や災いの中に苦しんでいる時も、父なる神さまが愛であり、全能である… ことに変わりはないのです。(山本修一師)

2013.7.21の説教断片

天地を造られた神 使徒信条(2) 創世記1:1〜5

 その世界(地球)はどのように誕生したのでしょうか。自然に発生したとか、爆発によって誕生したとか、進化によって人間が誕生したとか、 もっともらしく言われています。しかし創世記は、高らかに、「初めに、神は天地を創造された」と宣言します。私たちは、 人間の手になる科学の仮説に惑わされることなく、聖書を神の言葉として受けとめ、信じていきましょう。

 いったい父なる神さまはどのようなお方として信じるべきでしょうか。「天地を造られた創造者」として信じる、心から「そのとおりです」と告白できるなら、 聖書全体に対する霊的な目が開かれ、聖書の中のどんな奇蹟も信じることができるようになります。

 「初めに、神は…」とありますように、「神」が主語であり、はっきりと神が主権者であることを示しています。すべての根源が神であり、 何事も神中心に考えていくときに、真の幸せに通じ、喜びと祝福の歩みにつながることが約束されているのです。しかし私たち人間は、 すべて人生の中心は私自身です。自分中心に生きることが、不安と心配と不幸を招き、罪と悪に満ちた人生となることは現実の世界で証明済みです。 自己中心の世界和、創造前の「形なく、むなしく」「混沌」(2)とした地のありのままの姿であります。

 さてキリスト者である私たちも、自己中心であることが信仰の障害になっていることを知っています。しかし本当の目覚めには至っていません。 いまいちど「神の霊(聖霊)」に支配されること(2)を求めていきましょう。…聖霊が私たちに臨むとき、いのちと力を受けるのです。(山本修一師)

2013.7.14の説教断片

我は信ず 使徒信条(1) マタイによる福音書 10:32〜33

 使徒信条の第1回目は「我は信ず」です。

 「信じる」ことについて、いろいろな誤解があります。かつての福音派の教会では、やみくもに「ただ信ずれば救われる」と伝道しました。 「何を信じるか」「どのように信じるか」について、納得のいく説明のないまま、「ただ信じなさい」を強要するかのようでした。 しかし聖書は、その意味を理解して、心から主に従う信仰(知解の信仰)を求めているのです。

 もう一つの注意しなければならない誤解があります。教会歴が長い、教会内での存在感がある、聖書をよく知っている、祈りが立派であり、 弁が立つ…、このような人たちを信仰心の厚い人と私たちは思いがちです。それはあくまで人間の評価に過ぎず、神さまの見るところと違うのです。

 それでは聖書のいう「信仰」とは何でしょうか。「信仰とは主の招きに応えること」と理解したい。私たちは、日々、聖書・説教・ 信仰書などをとおして、神さまの呼びかけ、招きの声を聞いているのです。それを発見して、素直に応答していく。これが「信じる」ということです。 私たちが信心深いと得々と思っているときも、不信仰だと心うなだれている時も、恵みは日々降り注がれているのです。 それに感謝して、忠実に応答していくことが信仰です。(山本修一師)

2013.7.7の説教断片

イエスキリストを深く知る フィリピの信徒への手紙 3:1〜11

 上半期が過ぎましたので、今一度、今年の標語聖句を学びます。

 すでに私たちは「キリストのすばらしさ」の何たるかを知っています。人生の様々な場面でキリストに助けられ、支えられ、導かれていました。

 「イエスを知る」とは、主イエスについての知識を増やしたりすることではありません。キリストとの交わりに入るということです。 人格的な交わりとは、祈りであり、静思であり、黙想であります。ただ目には見えません。しかしそこには声のやりとりも、感情のやりとりも、 約束事もあります。交わりの目標は、キリストの愛を確認すること、交わりを喜ぶことです。ぜひ静かな時間をとって、主イエスさまとの交わりを深めましょう。

 ここでパウロの言う「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」は、キリストが死後の敵である「死」に対して勝利されたこと、 死者の中から復活されたこと…このことを知るすばらしさを意味します。かつてパウロはキリスト教徒を迫害してきました。ところが十字架にかけられ、 復活されたイエスご自身が、自分のような者に出会ってくださった。…パウロにとって天地を揺るがすような信じがたい出来事でした。 パウロはこの出会いによって、全く変えられました。

 私たちも主イエスの復活を通して、死の先に光があり、永遠の命があり、神の国が私たちに開かれていることを知りました。 もはや老いも病気も死そのものも、また長寿や運命も、人生最大の問題ではなくなるのです。

 なおも「キリストを知ることの(無限の)すばらしさ」を追い求めていきましょう。(山本修一師)

過去のメッセージ

2013年06月2013年05月2013年04月2013年03月2013年02月2013年01月2012年12月2012年11月2012年10月2012年9月2012年8月2012年7月2012年6月2012年5月


inserted by FC2 system