2014.4.27の説教断片

私は復活であり、命である ヨハネによる福音書11:1〜27

 パウロはファリサイ派の一員で、将来を期待された優秀な人でした。キリスト教の迫害者でした。ある日、キリスト者を逮捕するためにダマスコに向かう途上で、 天からの強い光に打たれ、地に倒れました。そのときからパウロの人生はまったく変えられたのです。キリスト教の宣教者、大伝道者に転換したのです。 何がパウロを変えたのか。復活の主イエス・キリストとの出会いでした。それ以来、パウロは復活の命に生きるものとされました。 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

 キリストに出会うと、私たちの人生、生活、価値観、物の考え方が変えられます。それほどにキリストとの出会いは、大きなインパクト(強い影響)があるのです。 パウロほどの体験は全ての人が得られるわけではありませんが、たとえ小さな出会いであれ、大きな出会いであれ、私たちは変えられていくものでなければなりません。 何ら変化のない出会いの体験は、不十分なものといわなければなりません。そして主イエスとの出会いは、一回で終わりではなく、日々必要なのです。

 ラザロの復活の話は、主イエスの復活のひな型でした。ラザロは死んで既に「四日」も経っていました(17)。 この「四日」というのは、ラザロが完全に死んだ…ことを意味します。遺体から死臭さえ出ていた…。そのラザロがよみがえったのです。 私たちも復活の主にお会いするため、古き自分が、完全に、死ぬことが求められるのです。(山本修一師)

2014.4.20の説教断片

ガリラヤ湖にて復活の主にあう(イースター礼拝) ヨハネによる福音書21:1〜14

 弟子たちは、すでに復活の主に二度ほどお会いしていたのですが、なおも十字架の死によって失意と絶望を心の中に引きずっていました。 ペトロの呼びかけで七人の弟子たちは漁に出かけました。その中に腕に覚えのある元漁師もいました。 時間をかければ、せめて食べるぐらいの魚はとれると安易に考えていました。ところが夜通し網を投げ続けても、一匹もとれません。 疲れ果て、空腹になりました。自らの能力と自信、プライドが砕かれていくようでした。そこにおいてはじめて主の現実(姿)が見えるようになりました。

 舟の中では「主のおられない現実」がありました。主は「岸に立っておられた」のです。主がおられないところで悪戦苦闘し、 なんらの成果(実)がなかったのです。

 この物語から、私たちは主イエスと離れて生きている時の無力さ、むなしさ、希望のなさを教えられるのです。

 私たちは、日々、主がおられない現実(生活)の中で、空しく闘っていることはないでしょうか。主がおられない現実にしっかり気づいているでしょうか。

 主は疲れ切り、空腹であった弟子たちを見かねて、「子たちよ、何か食べる物があるか」と呼びかけ、さらに「舟の右に網を打ちなさい。 そうすれば…」と助言してくださったのです。主のみ言葉に従うとき、あふれるほどの恵みで満たしてくださり、そのうえ朝の食卓(宴)に招いてくださるのです。 主ご自身が、炭火をおこし、魚を焼き、パンを用意して待っておられるのです。(山本修一師)

2014.4.13の説教断片

ゴルゴダの丘の十字架(十字架に向かってW) ルカによる福音書23:32〜43

 十字架刑による死ほど恐ろしい刑はない。十字架刑は当時、最も忌み嫌われた極刑でした。十字架の場所は不気味な「されこうべ」といわれたゴルゴダでした。

 神の御子である主イエスがどうして、よりによって「最も残酷で、恥辱な刑」を受けなければならなかったのでしょうか。 そんなに父なる神は無力だったのでしょうか。主イエスには、十字架に架けられる罪(嫌疑)があったのでしょうか。

 私たちキリスト者は、聖書により、主イエスはその時代のユダヤ指導者たちの「ねたみ」により十字架につけられたことを理解できます。 では2000年前のイエス・キリストの十字架はこの「私」とどんな関わりがあるのでしょうか。

 これは永遠の謎であり、髪を信じる者にとっては神の救いの奥義でありますが、神を信じない者にとっては神の愚かな敗北であります。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、 永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。十字架は、救い主の悲劇ではなく、輝かしい神の愛の勝利であります。 そしてこの十字架は私の罪のためでありました。キリスト者は、この神の奥義を生涯かけて究めるものです。

 聖歌399番は、高らかにこの奥義を伝えています。

                 カルバリ山の 十字架につきて
                 イエスはとうとき 血潮をながし
                 救いの道を ひらきたまえり
                 カルバリの十字架 わがためたり
                 ああ十字架 ああ十字架
                 カルバリの十字架 わがためなり
                                           (山本修一師)

2014.4.6の説教断片

弟子の足を洗う(十字架に向かってV) ヨハネによる福音書13:1〜20

 木曜の夕方から弟子たちを囲んで最後の晩餐が始まりました。その翌日からエルサレムでは盛大な過越祭が始まります。 そして主イエスの逮捕、裁判、十字架刑が直前に迫っていました。

 この最後の晩餐の席で、驚くべきことが起こりました。主イエスは一人一人の弟子の足を洗われたのです。しかもその後裏切るユダの足まで洗われたというのです。 もともと足を洗う仕事は、奴隷がすることでした。師が弟子の足を洗う話は、古今東西聞いたことがありません。

 ではこの弟子の足を洗うということは、何を意味しているのでしょう。第一は、「あなたがたもするようにと、模範を示す」(15)ためです。 第二は、主イエスの徹底的な謙遜を示すためでした。天上に住む神の御子が、姿勢を低くして世に下られ、貧しい、弱い者の友になり、 ここでは身を屈めて弟子の足を洗ってくださったのです。

 ところがペトロは主の思いを知らず、一見謙遜を装って、主の申し出を断ろうとしました(8)。本当は頭の中は「誰が一番偉いか」ばかり考えていました。 真の謙遜とは、主の恵みを素直に受け取ることではないでしょうか。第三は十字架による罪の赦しを意味するものでした。足や体を洗うことは、 私たち自身にもできることです。しかし信仰の世界に入るには、主イエス自身の洗足(罪の赦し)が必要なのであり、それなくしては復活、 聖霊降臨の恵みも受けられないのです。(山本修一師)

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