2014.7.27の説教断片

わたしたちと共に行ってください(祈りの3) 出エジプト記 33:12〜17

 エジプトを脱出して、3ヶ月目にシナイ山に到着しました(19章)。そこでモーセは山に登り、40日40夜かけて、直接に神さまから十戒、 律法を授かりました(19-31章)。一方で山からモーセが下りてこない民は、不安になり、それがピークに達すると、金の小牛像を造り、それを囲んで祭り、 踊り、戯れたのです。これまでの神さまの導き、愛、寛容をすっかり忘れ、偶像礼拝を始めたのです。あっさり信仰を捨てたのです。 忍耐を学ぶ信仰にはつながりませんでした。

 私たちも不安におちいると偶像礼拝に走ることはないでしょうか。現代における偶像とは『人にとってそれなしでは生きていけないもの』です。 お金、人の力、目に見える人間の保障など、こういう現代的偶像に依存していることはないでしょうか。

 この民の様子を見て、神さまは、「わたしは彼らを滅ぼし尽くそう…」(9〜11)と、激しい怒りを示されました。 それを知ったモーセは、神さまの怒りを懸命に宥め、とりなすことを第一優先としたのです(12)。…あらためて山に登り、民の罪に自分を重ねて、 彼らの罪の結果を自分が背負ってもいいと、神さまに命をかけて懇願しました。

神はそのモーセの祈りを聞き、再びイスラエルをカナンに導くのですが、「…わたしは(主は)共に行かない、(主の)使いを遣わす」といわれました。 民にとって、よき報せでしたが、モーセにとっては不満でした。「わたしたちと共に行ってください」いっそう激しく、懇願しました。 モーセの祈りは「神の臨在」のみでした。

 神の臨在を求める祈り、それはモーセに限らず、キリスト者としての究極の祈りです。(山本修一師)

2014.7.20の説教断片

今日、わたしを顧みてください(祈りの2) 創世紀 24:1〜14

アブラハムは140才、一人息子イサクは40才、妻サラは数年前に亡くなっていました。アブラハムの最大の心配は、イサクの嫁でした。 アブラハムは、最も信頼を寄せる家僕エリエゼル(24:2、15:4)を呼び、イサクの嫁を見つけて、連れ帰ってくるという任務(4)を与えました。 エリエゼルはアブラハムの全財産を委ねられた、忠実で賢く、そして謙遜なしもべでした。

 エリエゼルに与えられた任務は、重大で、難儀なものでした。ラクダを10頭も連れて、カナンからナホルの町(ハラン)まで約600キロ以上、 約20日以上を要する道のりでした。盗賊に襲われる不安もありました。ハランで、ふさわしい女性を見つけられる保証は何もありませんでした。

 ハランに到着すると、井戸端に行き、まずそこでエリエゼルは祈ったのです。エリエゼルの祈りの特徴は、第一にとても具体的な祈りでした。 神さまはわたしたちの必要をご存じですが、具体的に(声を出して)願い求めることの大切を示してくれます。第二は、「ください」の一点張りで、 身勝手な祈りのように見えます。しかし彼の祈りは自分のためではなく、あくまでイサクのため、アブラハムのためでした。 第三は彼の祈りの中心を御心に置きました。「(主よ)今日、わたしを顧みて(ください)」(12)。つまり自分中心ではなく、神中心の祈りでした。

 エリエゼルの祈りは、まだ祈り終わらないうちに聞かれたのです。御心だったからです。イザヤ書(65:24)は語ります。 「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。」

 祈りの答えが遅いと感じる人は、今一度エリエゼルの祈りを実践してみましょう。(山本修一師)

2014.7.13の説教断片

祝福してくださるまでは(ヤコブの祈り) 創世紀 32:23〜33

これからしばらくシリーズで、聖書の中の代表的人物が、どんな状況の中でどんな祈りを献げてきたのか、私たちはどう見習うべきかを学んでいきます。

 ヤコブの祈りは、「祝福をしてくださるまでは」と、何が何でも答えを求める格闘的祈りでした。聖書の中でもこのような祈りは他に見当たらないのです。

 ヤコブは小さいときから知恵と才覚が働き、しかも人を蹴落としてでも横取りしようというずるい性質を持っていました。 不思議なことは、兄エサウを騙して得た祝福も有効なことでした。ヤコブは祝福は得たのですが、その罪により20年余も苦しんできました。

 ヤコブがいよいよエサウと再会する前に、その仕返しを恐れて、徹夜して祈る姿が描かれています。 聖書では、何者かと夜明けまで格闘したという表現になっています。

 この格闘的祈りは、ヤコブの自我を砕き、生まれながらの性質を変えました(33:3)。

名前がヤコブ(押しのける者)からイスラエル(神の祝福)(32:9)と変えられました。さらに家族のいのちも救われ、さらに兄エサウも変えられたのです。

私たちの人生も格闘、戦いの連続です。信仰の人生も同じです。しかし、最大の格闘は、神との格闘、祈りの格闘、霊的な格闘なのです。 神は求める者を喜んで祝福してくださる。ましてや、しゃにむに求めてくる者を主は拒まれることがないのです。

 ヤコブの受けた究極の祝福は、兄エサウとの和解ではなく、神と出会い、神に触れ、神の言葉を直接に聞いたことでした。 この祝福を願い求めていきましょう。(山本修一師)

2014.7.6の説教断片

ホーリネスの四重の福音(2) マタイによる福音書 8:14〜17

 第三番目は、「神癒」です。

 「神癒」とは、神の力によって病が癒されることをいいます。

 「神の癒し」については、@まず創造主の創造の業を仰ぎ見ることが求められます。「わたしはあなたをいやす主である。」(出15:26)。 A次に「癒し」は、罪とか十字架とか救いとの関係で理解されなければなりません。14〜17節の一連の癒やしの最後に、イザヤの預言(「苦難の僕」)が書かれています。 「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った」(17)。キリストは十字架にかかり、私たちの罪とすべての刑罰を、 さらには私たちの病をも担ってくださったのです。

 「神の癒し」には、二つの意味があります。@は、言葉どおりに肉体的な病気のいやされること。Aは、十字架によって罪がゆるされ、 神との関係が正しくなり、人間の本来のあるべき健全な姿に立ち返ること。これこそ「真の癒し」であります。 この真の癒しが得られれば、たとえ肉体的病気が続いていても、もはや病気で苦しむことがなくなるのです。

 四重の福音の第四は、「再臨」です。

 再臨とは、主イエスが再び来られることです。キリストの再臨は、この世の終末であり、御国の完成の時であり、さらに人々に対する審判の時であり、 福音を信じない人にとっては永遠の滅びです。

キリストの再臨も、世の終わりも、クリスチャンにとっては恐れるべきものではなく、待ち望むべきものです。 キリストの再臨の時に備える生き方こそが、「聖化」への道であり、やがての「栄化」につながる歩みであるといえます。(山本修一師)

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