2015.2.15の説教断片

からし種一粒ほどの信仰(信仰とは4)  マタイによる福音書 17章14-20節

 マタイ17章は、山の上の出来事(1-13)と山の下の出来事(14-20)が対照的に描かれ、さまざまなことを教えてくれます。「天上と地上、信仰と不信仰、 主の直接的支配のある世界とそうでない世界」などです。

 山の下では、てんかんの子どもを癒すことができず、弟子たちは自信を喪失し、親は失望していました。かつて弟子たちは各地に派遣される前に、 病気を癒す権能(10:1)を与えられていました。しかしここでは「信仰が薄い」(20)ために、それが出来なくなっていました。 かつてできたことが今はできなくなっていたのです。

私たちもかつての信仰や経験は役立たないのです。いのちの水を注がれて、絶えず生ける信仰をもっていなければ、力ある証しや力ある奉仕はできないのです。

 からし種は最小のものですが、やがて大きく成長していく生命力があります。主イエスは、からし種のように小さくても、いのちのある信仰ならば、 いかなる困難や障害の山々をも排除して進む力があると言われるのです。

 最後に信仰とは何でしょう。私たちは、信仰が深くなければ、祈りが聞かれ、目の前の道がどんどん開かれ、 期待通りの結果を出すことができるはずだと考えがちです。この見方は、神のみわざであるにもかかわらず、人間の能力と誤解する危険が潜んでいます。 信仰とは、私たちの願いや祈りがかなえられることでもなく、生活や人間関係が豊かにされることでもありません。 ただ「私のところに連れてきなさい」(17)との主の呼びかけに応じ、何でも主のところにもっていく率直さが求められるのです。これが信仰です。(山本修一師)

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