福音の真理に従って ガラテヤの信徒への手紙 2:1〜14 

2012.9.30の説教断片

 主イエスの十字架刑から、まだ20年にも満たない頃です。聖霊の力強い働きにより、主イエスの福音が異邦人に伝えられ、 ますます福音が拡大していきました。しかしキリスト教会は立ち上がったばかりで、組織や教義などさまざまな面で未熟でした。 この頃アンティオキアにいたパウロ一行は、二回目のエルサレム訪問をしました。異邦人の救いのために割礼が必要かどうか、 議論するためでした。初めての使徒会議(使徒15章)と言われています。 ユダヤ教的キリスト者(割礼派)たちは、異邦人教会を訪問して、律法に堅く立つように強硬に主張し、トラブルを起こしていました。 パウロは断固としてこの「ほかの福音」(ガラテヤ1:6)をはねつけ、「キリストの福音」(1:7)を伝えました。 この結果、この会議で、エルサレム教会はユダヤ人に、アンティオキア教会は異邦人に…伝道していくことを決定しました。 各働きの違いを認め(2:7)、交わりをする(2:9)、これは主にある一致でした。

 一年後、アンティオキアで、パウロが激しくペトロを叱りつける事件がありました。こともあろうに、主の一番弟子であり、 エルサレム教会の指導者であったペトロを責めたてたのです。それは、先輩、後輩という小さな問題ではなく、 神の救いの根本に関わる問題でした。パウロは、ペトロが人(割礼派)を恐れて福音の真理に向かって歩もうとしない優柔不断さを責めたのです。

 私たちの教会において何が正しく大切なことでしょうか。ともすれば教職の意見、先輩の自信のある声や、 教会の伝統・習慣が大切にされてしまうことはないでしょうか。本当にみ言葉の基準に沿うものかどうかを… 第一に考えていくべきことを、パウロを通して教えられるのです。(山本修一師)

預言者サウロから使徒パウロへ ガラテヤの信徒への手紙 1:11〜24 

2012.9.23の説教断片

 私どもの人生を変革し、決定的に二分する出来事は、主イエス・キリストとの出会いです。 パウロの歩みは、主イエス・キリストの出会いによって一変しました。 イエスの迫害者から、使徒パウロへ、キリストの福音を嫌悪する者から命をかけて伝える者に変えられました。 パウロほど鮮やかに変えられた人はいないかもしれません。

 私たちの人生も、イエス様との出会いによって、変えられました。いや変えられているのです。 パウロほど決定的とは言えないまでも、年を経るほど、あの時の出会いによって、生き方も、価値観も、方向性も、 自己中心から神中心に変わったものだと…実感します。

 変えられたパウロは、人に会うことも、相談することもなく、「アラビア」(17)に出ていきました。 何のためにアラビアに出て行ったのか、アラビアとはどこか、どのくらい過ごしたのかなどは聖書では不明ですが、 それはパウロにとって神の前で、徹底的に黙想するところでした。 そこでパウロは、旧約聖書を学び直し、主イエス・キリストの生涯を振り返り、十字架の死と復活を深く沈思黙考したことと思われます。 アラビアは、パウロにとって、謙遜と愛を学び、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。

 私たちにとっても「アラビア」が必要です。日常生活の騒音と煩いから脱却して、静かに神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。 私たちのアラビアで、神さまが私たちを選んでくださったこと、汚い罪を無条件で赦してくださったことを… しっかり吟味し、感謝する時間と場が必要ではないでしょうか。(山本修一師)

ほかの福音はない ガラテヤの信徒への手紙 1:1〜10 

2012.9.16の説教断片

 宗教改革者のルターは、このガラテヤの信徒への手紙を大変愛読していたといわれます。 それはこの手紙が最もイエスの福音を明らかにしてくれると考えたからです。

 ところがこのガラテヤ書は、他のパウロの手紙とは様子の異なるものです。 あいさつ(1‐5)の後で感謝も賛美もなく(ローマ、Tコリント)、いきなりガラテヤの人たちを叱責したり、 戒めたりするような手紙です。

 いったいガラテヤの教会に何があったのでしょうか。ガラテヤの人たちは偽教師に惑わされ、 パウロの福音から「ほかの福音」(6)に乗り換えていたからです。それは「割礼を受けて、 律法による掟と戒めを守らなければ救われない」というユダヤ教主義的な福音でありました。 パウロがイエスから掲示された全き恵みの福音とは質的に異なるものでした。

 パウロは「のろい」という言葉を使ってでも、「ほかの福音」を告げ知らせることが、 どんな恐ろしい罪を犯しているかを伝えようとしたのです。

 ところで私たちの中にも、「福音を信じる」ことよりも、「行いによる救い」を好む傾向があるように思います。 とらえどころのない恵みよりも、これさえ守っておけば十分、これさえ行っていれば確実という律法のほうが安心できるようです。 なんとなく救いの実感を握ることができるからです。

 神の恵みを信じることによって救われるとはどういうことか、これからガラテヤ書を学んでいきましょう。(山本修一師)

わたしの恵みはあなたに十分である コリントの信徒への手紙(2) 12:1〜10 

2012.9.9の説教断片

 パウロの宣教の生涯は、茨の道であり、過酷な苦しみ(Uコリント11:23-27)の連続でした。 「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。」 (詩119:71 口語訳)。パウロにとっては、さまざまな労苦を通して、十字架の苦難を学び、主の愛の 「広さ、長さ、高さ、深さ」を知ったのです。

 そのうえでパウロには、肉体上の「一つのとげ」(7)が与えられました。それは「サタンから送られた使い」といわれるほどに、 痛みの激しい、つらいものでした。「とげ」とは何であったか。てんかん。眼疾、マラリアとか言われていますが、不明です。 パウロはこのとげのために何度も、何度も、涙の祈りをささげました。

 しかし主は、パウロのとげを取り去るという方法では応えられませんでした。「わたしの恵みは(今のままで) あなたに十分である」「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。 たしかに肉体のとげは癒されることはありませんでしたが、その後も何千キロの旅を続けることに対しても十分な恵みが与えられたのです。

 私たちにとっての「とげ」は何でしょう。もう少し身長が高ければ、鼻が高ければ…、お金があれば、学歴があれば…。 人によっていろいろな悲しい「とげ」があります。

 「とげ」のために祈りましょう。祈って、祈って…主から「わたしの恵みはあなたに十分である」という お答えをいただきましょう。(山本修一師)

失望せずに祈れ ルカによる福音書 18:1〜8 

2012.9.2の説教断片

 この「不正な裁判官とやもめ」の話は、おそらく実際にあった話で、 人々の噂になっていた出来事ではないかと言われています。

 この裁判官は、弱い、貧しい立場のやもめに対しては、傲慢不遜な態度で耳を傾けません。 しかしやもめの一途な願いが、この裁判官の心を動かし、願いも聞かれました。 イエスは、「この不正な裁判官でさえもそうなのだから、・・・まして神は」と言われました。 話そのものはわかりやすいのに、話の構造が難しいのです。不正な裁判官と正義の神を並べているのですが、 どんな共通点があるのでしょうか。 そうではなく、義と愛の神は、現実の不正な裁判官とは全く違うこと…、 まるっきり性質が反対の方であること…を強調(対比)しているのです。

 ではどうしてこんなたとえ話を持ち出したのでしょう。それは弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(1) ことを教えるためでした。このやもめの姿を手本とせよ、ということではありません。 神を口説き落とすような、拝み倒したりするような祈りは避けるべきです。 時には熱心な祈りが推奨される場合もあります。(ルカ11:8)。 ここで主イエスは、ただ神を信じ、神を頼って「失望せずに祈るべき」ことを説かれたのです。

 私たちは家族や友人の救いのために、性急に祈ります。祈りながら、速やかな効果を期待します。 目に見える成果を望みます。しかし家族や友人はいっこうにイエスを信じようとしません。 救いが訪れません。やがて祈ることに疲れ、諦めてしまいます。それだけでなく、神さまは、 私の中途半端で不信仰な祈りを聞いてくださらない、と不信感さえわいてきます。

 こういう私たちに向かって、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と声をかけてくださるのです。(山本修一師)

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