2013.5.26の説教断片

聖餐とは何でしょう 日本基督教団信仰告白(12) ヨハネによる福音書 6:41〜59

 十字架にかけられる最後の晩餐の席のことです。主イエスはパンとぶどう酒をとり、これが私のからだと血の象徴だと説明されました(マタイ26:26-28)。 ではなぜ聖餐を続けるのでしょう。それは主イエスのご命令だからです。それ以来の2000年間、教会はこの式典を大切にしてきました。

 聖餐は、私たちが自らを省みるとき、悔い改めをする時です(Tコリント11:27-28)。主の前に謙遜になればなるほど、 聖餐の恵みをより深く知ることになります。

 本来なら、私たち自身の罪のために、私たちが十字架を受けなければなりませんでした。しかしイエスさまは、私たちの罪を赦すために、 十字架に身代わりとなって、死んでくださったのです。「(裂かれた)パン」は、鞭で打たれ、十字架に釘づけされ、槍で刺された主イエスのからだを、 「(流された)ぶどう酒」は、私たちの罪の赦しのために流されたイエス・キリストの血を象徴するものでした。 聖餐とは、パンとぶどう酒をいただいて、あの十字架の主の愛と苦しみを、心に刻みつける恵みの時です。キリストの愛がどんなに大きいものか、 キリストの苦しみがどんなに大きいものであったかを確認する時です。

 聖餐式は、洗礼式と異なり、何度もくり返されますが、決して小さな、形式的な儀式ではありません。救われたときの恵みと感謝を、 聖餐のたびごとに増し続けるものとならなければならないのです。(山本修一師)

2013.5.19の説教断片

人々は皆驚いた −ペンテコステ礼拝− 使徒言行録 2:1〜13

 ペンテコステの日に、聖霊降臨というまことに不思議で神秘的な出来事が起こりました。激しい風のような音が響き、 祈っていた一同に、炎のようなものが人間の舌のように分かれ、一人一人に分かれてとどまったのです。 イエスさまが洗礼を受けられたときは、聖霊は鳩が下るように降ったのです。

 私たちはどうでしょうか。洗礼を受けたとき、聖霊の賜物をいただいたのです。聖霊が注がれたという明確な「しるし」があります。 それは主イエスを愛する、信じる、理解する、そのことによって人間、社会、世界を見る目が変えられたということです。

 私たちは、聖霊は受けたのですが、聖霊を心の隅に閉じ込め、自分中心で、自分勝手な生き方をしています。 聖霊の働く余地をなくしています。これが私たちの恥ずかしい、憐れな現状です。このため、長い教会生活を送っても、信仰に勝利がない、 心からの喜びも感謝もわいてこないのです。ときおり、思い出したように「聖霊をください」と祈る人がいます。 しかし聖霊はすでに注がれているのですから、正しくない祈りです。私たちが求めていくべきことは、神の前に徹底して謙遜になること、 自我が砕かれること、心をむなしくし明け渡すこと、聖霊の支配を祈り求めることであります。…その時、「聖霊の満たし」の恵みが与えられるのです。 聖霊降臨前の弟子たちはどんなに熱心に祈っていたか学ぶべきです。「聖霊の満たし」は、決して自動的に与えられるわけではありません。(山本修一師)

2013.5.12の説教断片

洗礼とは何でしょう 日本基督教団信仰告白(11) マタイによる福音書 28:18〜20

 ここ(会堂)におられる多くの方々にとっては、洗礼は過去の出来事です。洗礼を受けて正式にクリスチャンになり、 教会員になったことは明確なことですが、「洗礼とは何か」について漠然としている方も意外と多いのです。

 洗礼の恵みは、過去一回で終わったことでなく、日々、これからもなお追い求めて行くべきものです。 洗礼が意味する第一のものは、罪の赦しときよめであります。洗礼によって、私たちの過去の数々の罪や汚れが、洗い流され、 きよめられたのです。罪の赦しは、キリストの十字架という贖罪によるものでした。やみくもに「ただ信じなさい」と言うわけではありません。 私たちは理解して信ずるのです。聖霊によって理解していく中で、神の愛を深く知り、十字架は私の罪の赦しのためであったことがわかるのです。 第二は、イエス・キリストの死と復活にあずかることです。すなわち新しく生まれ変わることです。私たちは水による洗礼を受けました。 古い私たちは「罪に」死んで、新しい私たちは「神の子」となって生まれ変わったのです。洗礼によってめざましく変えられた人もいますが、 多くは見た目には変わりません。しかし心の内面が変えられ、主とともに生きようという決意が与えられます。 第三は、聖霊の賜物を受けたことです。「もうひとりの助け主」である聖霊の導きによって、私たちが生まれ変わることができたのです。 さらに聖霊は私たちの内に働いて、神の真理を悟らせ、み言葉の奥義を示してくださるのです。そして私たちが、 「イエスは主である」と告白できるのも聖霊の働きによるものです(Tコリント12:3)。(山本修一師)

2013.5.5の説教断片

福音を正しく宣べ伝える 日本基督教団信仰告白(10) マルコによる福音書 16:1〜16

 もともと「福音」とは「良い知らせ」「うれしい知らせ」という意味でした。

 古代において戦いに勝利すると、一刻も早く国に知らせるため、伝令はひたすら走りました。伝令の使命は、 王や部族や家族にその勝利の知らせを届けることでした。それが「福音」でした。

 では私たちキリスト者にとって、何が「よい知らせ」であり、何が「うれしい知らせ」なのでしょうか。 それは「十字架の福音」「キリストの福音」「主イエス・キリストを信じることによって救われるという福音」であります。 聖書は、罪と汚れに満ちた暗い世の中にあって、何ものにも代えがたい喜びの福音であると告げます。

 主イエス・キリストは、昇天される間際に、落胆と絶望の中にあった弟子たちに現れ、信仰を確認し、伝道するように命じられました。 その伝道命令は、時代を超えて、主イエスの復活を信じる私たちにも、福音を伝えていく使命が与えられているのです。 そして現在の教会は、「福音を正しく宣べ伝えて」いく役割が与えられているのです。

 「福音を正しく宣べ伝える」とは、一言で言えば、「聖書のみ言葉を語る」と言うことです。福音は自分なりの仕方で、 解釈と理屈をつけて宣べることではありません。福音を正しく宣べ伝えるためには、それに先立って、日々、聖書のみ言葉を読み、 聖書を通して、正しく聞かなければならないのです。

 最後に、私たちは問われています。あなたにとって「キリストの福音」が、何にも代えがたい喜ばしき知らせになっているでしょうか。 この福音を手にして、それを周囲の人に一分一秒でも早く伝えたいという思いを持っているでしょうか。(山本修一師)

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