2014.5.25の説教断片

神の右に座したまえり(昇天記念) 使徒言行録 1:3〜11

 先週(5/21)は、北部地区会から光明園家族教会(国立療養所内)を訪問しました。この家族教会の人たちは、ハンセン病による被収容体験を通して、 ヨブのような悲劇的な辛酸を味わってこられました。今は主にとらえられて、主の慰めと愛をもっとも深く知る人たちです。 最近は、病と高齢のため、目の見える方が少なくなっています。目は見えなくても、私たち以上に、天国を近く感じ、天国に希望を抱き、 天国を待ち望んでいるのではないかと思わされました。

家族教会の壁に、墨字で書かれたみ言葉を発見しました。「主の栄光があなたの上にあらわれる」(イザヤ60:2)。 ここでのみ言葉との出会いは、心打たれます。この教会の方々は、おそよこの世の栄光とはほど遠い歩みでしたが、主イエスとの出会いにより、 まったく人生が変えられ、主の栄光が注がれるものになりました。生きる意味を見出しました。そして今なお「主の栄光」が彼らにとどまっているようでした。

 さて本日は、主の復活から40日目、主イエスの昇天を記念する聖日です。

 ではイエスは天に上げられ、どこへ行かれたのでしょうか。そして今、天において何をされているのでしょうか。私たちは、昇天の意味、 意義を知ることはとても大切なのです、

 第一に主は、天にあって父なる神の右に着かれ(マルコ16:19)、輝かしい栄光に満たされました。第二に主は、すべての権威と力と栄光を持つ王として、 万物をその足の下に置き、すべてを統べ治めておられるのです(エフェソ1:21)。第三に主は、大祭司として私たちのためにとりなしの祈りをしてくださいます。 主はキリスト者を通して、全地で、全世界で皆があがめられるように祈っておられます。主はキリスト者を通して、全世界の飢えている人々、 貧しい人々に、神の口から出た日ごとの糧が届けられるように祈っておられるのです。(山本修一師)

2014.5.18の説教断片

あなたを罪に定めない(神の愛V) ヨハネによる福音書 8:1〜11

 ヨハネ8章の「罪の女」の物語は、ルカによる福音書10章の「善きサマリア人」(30〜37)と並んで、読む人の心に深い感動を与える清澄な物語です。 後者が神の愛を伝えるものであるなら、前者は赦しでありましょうか。

早朝の神殿は静寂そのものでした。突然、荒々しい声が起こり、姦淫した女が広場に引きずり出されてきました。 平和な神殿が一気に緊迫した、裁きの場にかわります。律法学者たちは、この女を利用して、イエスをわなにおとしいれようと挑発しました。 イエスは何も語らず、身をかがめていました。やがてイエスは大きな声で「…罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7)といわれました。 そのお言葉は、意表をつくものであり、「諸刃の剣より鋭い」(ヘブライ4:12)ものでした。イエスの言葉によって、彼らの心は深く問われたのです。 「それほど自分は清廉なのか、人を処罰する資格などあるのか」。やがて手に握っていた石を捨て、一人去り、二人去って行きました。

 ヨハネはイエスを「光」(ヨハネ)として紹介しました。この物語でも、イエスの言葉によって律法学者たちの心に光がさしこみ、正しい心に立ちかえったのです。

 続いて「罪の女」にも光が照らされることにより、主から「姦淫などすべての罪」がゆるされ、人生が転換する恵みの時を迎えたのです。

 私たちも主の十字架の血潮で赦されたのですから、互いに赦しあわなければなりません。なおも嫌いな人の不幸を見て、喜ぶことはないでしょうか。 顔を合わせるのを避けている人はいないでしょうか。話しかけないようにしている人はいないでしょうか。(山本修一師)

2014.5.11の説教断片

モーセの母の祈り(神の愛U) 出エジプト記 2:1〜10

 聖書に多くの母が登場します。モーセの母ヨケベド(出エジプト6:20)は、勇気のある、祈りの人でした。モーセの生まれた時代は最悪でした。 奴隷の状態にあったヘブライ人がこれ以上増えると、国の脅威となることを恐れて、ヘブライ人に生まれた男の子はすべて殺せという王の命令が下された時代でした。 そんなときヨケベドは男の子を出産しました。「神の目に適った美しい子」(使徒7:20)でした。ヨケベドは妊娠のときから、ファラオ王女に引き渡すときまで、 いくたび苦悩と涙の祈りをささげてきたことでしょう。ヨケベドは「母乳に祈りを溶かして(モーセに)飲ませた」のです。

 子どものために祈る母は多いのですが、ここまで命をかけて祈った母はまれです。私たちは今日、多かれ少なかれ母の祈りによって支えられてきました。 いまだ母が救われていないならば、救われた私たちが代わって、ヨケベドの祈りにならうべきではないでしょうか。主イエスは、私たちの母の背後にあって、 母以上にとりなしの祈りをしてくださっているのですから。

古代最大の神学者アウグスティヌスは、晩年人生を回想しました。大人になるにつれ、母から離れ、神から離れ、あげくは異端の宗教に走ったことも、 この間の10数年間、母モニカはひたすら涙の祈りをささげてきたことも…。アウグスティヌスはいいます。「母のおかげで私は、神さまの御名を母乳と共に飲んで、 私の心に奥深く蓄えた」「涙の子は滅び得ない」と。(山本修一師)

2014.5.4の説教断片

はかりしれない愛(神の愛T) エフェソの信徒への手紙3:14〜21

 キリスト教は「愛の宗教」といわれます。聖書全体に「愛」が貫かれているからです。

 聖書の中にあるいっぱいの愛を探し出してみませんか。イエスのことば、癒し、奇跡などの中に愛を見つけるのは比較的容易ですが、 「血の汗したたるゲッセマネの祈り」「凄惨(せいさん)極まる十字架」に神の愛を見つけるのは決して簡単ではありません。 私たちキリスト者は、この「恐ろしい、理解できない十字架」「輝かしい復活」の中にこそ神の愛を発見し、その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を 味わうものとなる。これが信仰者の歩みです。

 パウロは、牢獄の中から愛するエフェソの人々が「愛に根ざし、愛に立つ」ように祈りました。このため具体的には第一に内なる人が強められるように(16)、 第二はキリスト(聖霊)が内住するように(17)、第三は人知を超えた愛を知るように(19)、と涙の祈りをささげたのです。

 かえりみて私たちの今の信仰はどうでしょうか。いまだに「内なる人」が弱く、生まれながらの「古き人」が居座っていないでしょうか。 いついずれも人知を超えた恵みです。人間の手で、人間の努力で獲得できるものではありません。だからこそ一所懸命に祈り求めていかなければならないものです。 神の「はかりしれない愛」を知り、「愛に根ざし、愛に立つ」信仰と生活を求めていきましょう。(山本修一師)

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