2014.6.29の説教断片

ホーリネスの四重の福音(1)  ヨハネによる福音書 3:1〜15

 6月は、ホ群の諸教会では、弾圧記念礼拝と共に、「ホーリネスの四重の福音」という教理を確認・強調する月間です。

さて四重の福音の第一は、「新生の福音」です。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)。 キリスト者の歩みは、「新生」から始まります。「新生」とは、罪が赦され、新しく生まれ変わること。 ここでいう「新しく」(3)とは、「上から」、すなわち聖霊によるものであることを意味します。

 現代の多くのクリスチャンは、この聖霊による新生体験が不十分であると指摘されるところです。 「新生」の体験がないと次のステップの「聖化」に進むことが困難になります。

 第二番目は、「聖化の福音」です。聖化とは、私たちが罪よりきよめられること、「聖なる者」となることです。

 なぜ新生のほかに聖化の体験が必要なのでしょうか。クリスチャンは、洗礼を受けて新たに生まれ変わったのですが、 実は罪の性質(原罪)が心の内奥に残っています。だからすぐに罪に負けてしまいます。 聖化とは、この残る「原罪の影響力」(悪への傾き)が徹底的に弱められていくことです。

 そしてこの罪の性質が変えられるには、聖霊の炎によって一挙に燃やされることも、そしてその後も燃やし続けられていくことも、大切なことなのです。

 わたしたちは聖霊の助けにより、罪の性質を徹底的に焼いていただき、絶えず成長を続けましょう。

 ここでも今生きるクリスチャンが問われています。神さまに物や癒しを求めることはあっても、「神の聖」に飢え渇き、 求めている人は何人いるでしょうか。(山本修一師)

2014.6.22の説教断片

神の恵みの選択(神の愛Z) ローマの信徒への手紙 9:61〜8

 本日は、「ホーリネス弾圧記念礼拝」を献げています。 私たちは、ホーリネス系の諸教会が信仰により弾圧された迫害の歴史と、弾圧に抵抗した信仰を継承していることを感謝します。

 ところで私たちは、どうしてクリスチャンになり、この教会の会員になったのでしょうか。 主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ 15:16)といわれました。 私たちは自分の意志で、この教会と信仰を選んだのではないのです。

 「神の選び」には、いくつかの特徴があります。第一に、神の選びは一方的であることです。神さまの自由な選びには、私たち人間の入る余地はありません。 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15、出33:19)。第二は、神の選びは恵みによるものであることです。 恵みとは、神さまからの一方的な、無償のプレゼント(贈り物)であるということです。そのプレゼントの最大の中身は「キリストの十字架の贖いによる罪の赦し」です。 第三は、私たち人間の理解をはるかに超えたものであることです。当初、神の選びなど、いささか迷惑だと過小評価していました。 しかしキリスト者としての歩みが進めば進むほど、その選びの意味も価値もどんなに絶大のものであるか、 またそれは人間の理解をはるかに超えた「恵み」「祝福」であるかがわかってきました。

 私たちは今、ただ神の選びのうちに生かされていること、この教会の一員として連なることがゆるされていることにのみ、 目を向け、感謝をささげていきましょう。(山本修一師)

2014.6.15の説教断片

放蕩息子を待つ神の愛(神の愛Y) ルカによる福音書 15:11〜32

 「放蕩息子のたとえ」は「たとえ話しの中の真珠」といわれる感動的な物語です。このお話のテーマは、放蕩息子の悔い改めではなく、父の愛と赦しです。 それは息子の罪のことより、父の愛についてより多く語られているからです。

「放蕩息子」とは、だれのことをいうのでしょう。かつて私たちは、神から離れて自らの欲望のままに、自分中心に生きていました。 神から離れれば離れるほど、罪と堕落、不安と絶望の生活に落ち込みました。神を無視して生きる人生は、神の御前では死人に等しいものでした(エフェソ2:1)。 私たちが神のもとに帰り、悔い改め、洗礼を受けたとき、地上においても天上においても大きな喜びを得たのです。私たちこそ放蕩息子でした。 今はしっかりと神のもとで生活しているでしょうか。

 「兄」は、父(神)に対して忠実に仕えてきました。ただそれは父の愛のためではなく、義務として働いていたようです。 兄は、父と一緒に生活しながら、心は父から遠く離れていました。だから弟の突然の帰還を素直に喜べませんでした。 その弟の厚かましさ、父の愚かな愛を受け入れられませんでした。兄は当時のファリサイ派の人たちや律法学者たちを指していました。 しかし私たちの中にも兄のような傾向が残っていないでしょうか。

 「父」とは、父なる神さまです。神さまは私たち人間に自由を与え、自分の意志で心から従うことを待っておられます。 ボロボロになっても帰ってくる息子を遠くから走り寄り、抱きしめ、赦して下さるのです。 無心に母の胸に飛びこんで行く幼子のような信仰こそ求められる姿勢です。(山本修一師)

2014.6.8の説教断片

良きサマリア人の愛(神の愛X) ルカによる福音書 10:25〜37

 「良きサマリヤ人の物語」は、とても有名な聖書のお話です。「あなたの隣人とはだれか」「隣人愛とは何か」「人を愛するとはどういうことか」 …深く、重く考えさせてくれるお話です。

 祭司やレビ人の愛なき、律法に反した行動は、どんな理由であれゆるされません。 イエスは祭司たちに「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、しようとはしない」 「隣人を愛していると思っているが、ただ自分のできる範囲のことをしているだけだ」 「傷ついて瀕死の人を助けるべきことが分かっているのに、助けないことが問題だ」ということを厳しく指摘されました。

 私たちはどうでしょうか。目の前に人が困窮し、倒れていた場合、まず君子危うきに近寄らず的な傾向がないでしょうか。 その倒れている人の心や痛みを理解するより、自分の立場・都合を優先するならば、これこそ「祭司的」「レビ人的」傾向といえるのです。

 この良きサマリア人はだれのことでしょう。それは主イエス・キリストのことをさしています。かつて私たちが傷つき、苦しみ、倒れ、 死にかけていたとき、主イエスは救いの手をさしのべて下さったのです。そして今日も願う以上の援助をして下さるのです。

 最後に、この強盗にあって瀕死の重傷を負った旅人、私たちの目の前にいる困窮者は、じつは主イエス・キリストご自身なのかもしれません。 主イエスはこういう姿であらわれ、私たちに対して、「(このサマリヤ人のように)行って同じように(私に親切に)しなさい」と促されているのです。 「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」(マタイ25:40)という聖句にも通じる考えです。(山本修一師)

2014.6.1の説教断片

信仰・希望・愛(神の愛W) コリントの信徒への手紙(一) 13:1〜13

 パウロは「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛。その中で最も大いなるものは愛」といった。 これを受けて内村鑑三は「永遠の生命とは、信、望、愛の生涯なり」といった。

なぜパウロは、この三つのうち、一番最初に、「信仰」を取り上げたのでしょうか。 人間が生きていく上で、主イエス・キリストを信じる信仰を土台としなければならないからです。乳児が母を全面的に信頼するように、 私たちも100パーセント主イエスを信頼するものとなりたい。神は私たちにたくさんの約束をし、それを実現して下さるのです。 聖書の中に、神の約束を見つけ、ノートにしましょう。それが実現されていることを確認していきましょう。

 第二は、「希望」です。希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで満たしてくださる、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるのです(ローマ15:13)。希望は、神のみ言葉の中に、お約束の中に満ちています。 そして「希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:5)

第三に、「愛」です。ここでの「愛」とは、人間の愛ではなく、神の愛であり、キリストの愛です。 独り子をささげるほどに私たちを愛してくださった愛、ご自身を十字架の犠牲としてささげてくださった愛です。 人間の愛ではなく、この「愛」が私たちの人生に力と希望を与えるのです。パウロはさらに愛は「最高の道」(12:31)であるともいうのです。

最後に、私たちがこの世においてあくせく獲得し、集め、わが物にしようとしているものは、死を経てすべて消滅してしまいます。 私たちが裁きの主の前に立ち、差し出すことのできるものは何でしょう。それは「信仰・希望・愛」です。(山本修一師)

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